2025-03-05

病牀雑記(11) 9.5

最近、病状に変化があったこともあって余裕を失っていたこともあり、入院後の経過を飛ばしてしまった感。本来であれば放射線治療のことを書こうと思っていました。が、結構前の話になるし、何か書き留める程のネタがあるかと言われるとあまり思い浮かばないので、何となく覚えていることだけを記録しておく。時系列的には雑記(9)の後になるので、9.5とナンバリングしました。物理的には(11)、論理的には9.5と言うことで。

放射線治療

抗がん剤と並行して放射線治療が始まった。基本的に平日毎日(土日祝は休み)実施で9月下旬から11月上旬まで続いた。照射する部位が喉〜顎〜口の辺りになるため、副作用も口内の炎症も予想されていた。照射を開始して一週間程は見た目にも特に副作用はなし、二週目くらいから首筋が日焼けしたかな程度に赤らんできた。口内の違和感は開始前からあまり変わらなかったと思う。元々唾液の分泌が過剰気味だったが、増えも減りもしなかったように思う。口内炎的な炎症と言うか、舌が痺れる感覚は出てきた。その後は舌が痺れたり若干の炎症が口内にみられ、首筋の皮膚が変色してかさぶたになったりしていたと記憶している。

その間も痛みに苦しむようなことはなかったのだが、密かに処方されていた痛み止めの薬効で痛みを感じていなかっただけなのかもしれない。気持ち的には、放射線よりも抗がん剤による副作用の方がきつかったと思う。今思えば、基礎体力は増えていないのに、生食静注で身体全体が水膨れ、体重が6kg近く増えた状態はかなりしんどかった。歩いたりするだけでも水分で体重が重くなっている身体は結構しんどいものがある。それを考えると放射線の副作用はあまり気にならないレベルだったかと思う。

髪の毛がひどく抜けるようなことは無くなっていったが(むしろ最悪の時よりも髪の濃さが戻ってきたと思う。)、放射線が直接照射される髭は全く無くなってお肌トゥルトゥルになりました(笑)。病院からはずっと皮膚の塗り薬を処方されていたが、あまり熱心に塗っていなかったと思う。あと口内の炎症を抑えるようなうがい薬も同様に殆ど使わず終いだった。今でも少し舌の痺れなどが残っているが、うがいをサボったからかどうかは分からない。

治療の終了

二回の抗がん剤治療と放射線治療は11月の上旬で終了した。あと1回分だけ投薬が残っていたが、身体への負担を考慮して放射線治療と同時に投薬も中止となり、所謂がんをなくしていく積極的な治療は終了した。以降は、治療の効果が現れるのを期待して待ちつつ、身体のケアをする時期となる。副作用は残っていたが、それも徐々に良くなって行くのを実感できたし、少しずつではあるが(また主観的ではあるが)腫瘍も小さくなっていっているようだった。

フィジカル、メンタル共に一番静穏な時期だったように思う。定期的な検診や検査の他はあまりすることもないので、インターネットの通信量もピークだったのではあるまいか。仕事の方も、会社からは休職を言い渡されたので必要以上に仕事に関わることはしなかったし、ひたすらインターネットで動画やら何やらを見て過ごしていたと思う。ひたすらコンテンツ消費に励んでいました。

病院とは今後の方針を相談するようになった。今の医学においてできることは全てやった状態、言葉を変えればこれ以上やれることはない、と言うことを説明された。勿論、標準治療以外の手段が無いことはないが、費用と実際の効果を考えればあまり現実的ではない。1分1秒何が何でも延命しなければならないような状況でない限り、人事は尽くしたと言うことだ。そうした状態で、今この病院に居続けるよりも地元に近い病院で緩和ケア病棟へ入院することを勧められた。あくまでもここは積極的な治療を行う場であり、今はもうその役割を終えている。勿論患者である私自身が望むのであれば入院を継続することも可能だが、費用的な面からもあまり勧められないとのことだった。

緩和ケアの段階へ

本来であれば、退院して自宅での療養とするのが望ましい。しかし私の場合、口からの食事ができない、カニュレを入れているために定期的なメンテナンスが必要であることから自宅での療養は実質上無理である。結局、生命維持の為にはそれなりの医療機関にお世話になるしかないのだ。ある程度の食事が可能になるよう、口内の状態が良くなればいいのだが、食事が可能な状態になるにしても結構時間がかかるであろうとの判断だった。個人的には、喋れるようになることと口から食事ができるようになることを目標にしていたのだが、入院当初から抱いてきたその目標は挫けることとなった。腫瘍が小さくなって、食事や呼吸を阻害している原因がなくなれば…と思っていたことがほぼ困難と自覚させられたことで、一つの気持ちの区切りになったと思う。

一つの覚悟。

これは今後の社会復帰等の見通しを考える上で重要な区切りとなった。入院した当初はいつからアイドル現場に復帰できるか? を常に考えていたので、アイドル本人に今の病状などを言うつもりは無かったし、次に会える現場のことをあれこれ思い描いて行動していた。しかしこの覚悟を持った時点で、アイドル現場への復帰は諦めた。外に対してそうは言わなかったし、可能性ゼロとして完全に諦めたわけでは無かったが、まあ余程のことが無い限り復帰はないだろうなあ、と思っていた。その余程のことに今でも希望を抱いてはいるけども。

治療が終了してから、親族の協力で転院先の緩和ケア病棟がある施設を探し始めた。複数の病院をあたってもらって、なかなかの好条件な病院に転院することが決まった。その病院は私の自宅からも、親族の家からも程近い立地にあり、外出や面会などの条件もかなり患者に寄り添うものであった。一時帰宅や外出が可能なこと、親族であれば24時間、更に宿泊しての見舞いも可能であること、等々。
後は転院の日程などを詰めるだけとなり、約5ヶ月に及ぶ都内の大学病院での入院生活を終えて地元へと戻ることとなった。

入院した当初は「根治を目指して」との言葉に勇気づけられたが、こうなってしまったのは無念である。だが人事を尽くしてもらえたことはこの身を以て実感していることなので、医師や看護師、スタッフの皆さんには感謝しかない。

2025-02-23

病牀雑記(10)

 感覚的には小康状態が続いているのだが、ここ最近は痛みを感じるようになってきた。いよいよアレが近付いてきているのか。一応それなりの覚悟は常に持っているつもりだが、その覚悟も現実味をより一層帯び始めてきたと言うことか。

このblogにて入院前からの病状や治療中のことを書き連ねていこうかと思っていたが、それも過去のことだし、そんなことも言っていられなくなってきたのかもしれない。

痛みというものは、恐ろしく人を消耗させる。肉体的にも精神的にもゴリゴリ削られて行く感覚。当初はアセトアミノフェンで抑えられていたものが、薬効の切れ目が近付くと痛みを感じるようになる。特に夕食後から翌朝にかけてが時間が空くために、深夜〜明け方にかけて痛みで目が醒めるということが続いた。そこで夕食後、就寝前に投与してもらうようにしたが、それでも明け方の時間帯がどうも具合が良くない。また昼間の時間でも6時間は持たない感じがしてきた。

そこで愈々、オピオイドが処方されるようになる。あまり日を待たずに量が少し増えたところはあるけど、効果は上々だ。ほぼ一日効果が持続するから、途中で目覚めるなどということはほぼ無くなった。だが温度や血流の変化など、刺激がきっかけで一時的に痛みが来ることもあり、その時は何も手に着かない状態に陥り、消耗する。

また痛み止め薬無しには普通に生活を送ることが難しいので、状況は良くない方向に一歩近付いたということだろう。また痛みがくるのを避けるために、普段の活動量・運動量も減少したように思う。

人はこうして消耗していくのか。

2025-02-09

病牀雑記(9)

こう言った日記は間を空けると、筆者の身に何かあったか? と思われてしまう可能性があるので、間を空けるのは良くないな。しかし書くこと自体を忘れがちな上、書く内容もあまり思いつかなかったことから更新が止まっていたのであって、更新できない程容態が悪化したわけではないことを始めにお断りしておく。

抗がん剤治療・気道切開

1クール目の抗がん剤治療が始まった。…のだが、これを書いている今よりも半年近く前のことになる。流石に詳細はあまり覚えていない。確か3種類の抗がん剤を投与していたと思う。これを週一で4週(回)繰り返す。この時は副作用が目立ち、皮膚と頭髪へのダメージが大きかったし、見た目的にも目立っていた。あと今にして思えば、下痢気味だったのも薬の副作用だった気がする。下痢以外の、皮膚や頭髪への副作用については、痛みや苦しみは特になかったので、何となく普通に過ごせていたと思う。

覚悟はしていたけど、シャワーを浴びて頭をタオルで拭いたり、手櫛で髪の毛を梳かしたりする度に結構な量の毛髪が抜けるのには閉口した。換毛期の動物かという勢いで髪の毛が抜けていったのにはショックでした。

抗がん剤とは別に、腫瘍への治療と言うよりかは、腫瘍が気管の入口のところを圧迫している関係で呼吸を邪魔している状態だったので、人工気道(カニュレ)を入れる手術を行った。声帯よりも下の部分で空気が出入りするため、声が出せなくなった。元々、口内にできた腫瘍のせいで舌が回りにくい状態ではあったが、物理的に発声をできなくなった。
入れているカニュレの種類で声を出せるタイプ(呼気は声帯を通じて口へ、吸気は喉の開口部から)もあり、手術後一週間半程してからは声を出せるタイプになったが、しばらくしてからまた声が出せないタイプに戻ってしまった。声が出せないのは本当に不便で、先ず電話ができない。何かの時には電話で対応しなければならないことがある(例えばクレジットカードが不正利用された場合にカード会社から確認の電話がかかってくるとか)が、それに対応出来ないのには焦りを覚えた。たまたまそうした機会はなかったが、対面であれば筆談で意思疎通をすることができるが、電話ではそうもいかない。喋れないことを伝えることすらできないのだ。とりあえずの対策として、スマートフォンの文字読み上げ機能を準備しておくことにした。「私はしゃべることができません」のような文章を用意しておいて、いざという時はそれをスマートフォンに読み上げてもらおうという寸法だ。

いずれにしても、腫瘍が口内の食道と気道の入口を圧迫している関係でカニュレを入れていることと、飲食物を口からのみ込めないため栄養物は鼻から食道へ挿入されたチューブで流し込むこととなり、それは今でも続いている。そしてそれ故、退院して自宅で療養することができないでいる。呼吸と飲食という生命維持に必要なことが、医療機関の手助けが必須であるということはどうしても不便に感じてしまう。

それはさておき、抗がん剤の2クール目はシスプラチンの投与となった。シスプラチンの方が抜け毛など目立った副作用はなかったのだが、薬成分を腎臓内に溜めることなく体外に排出するために、生理食塩水と利尿剤を大量に点滴で静注されることになる。当然尿も多く出るものの、静脈内に生食を入れるものだから、身体の浮腫みが酷い。体重も増えるし、自分でも身体が鈍重になっているのを感じる。要はダルい。数日で水分は抜ける感じだが、抜けたと思うと次のサイクルが始まってその繰り返し。今思えばそこそこ身体に負担がかかっていたと思う。血液検査の結果も芳しくなく、一時期は輸血を行ったりもしたし。

入院後から続く点滴のお陰で、秋以降は点滴の針を設置する箇所を探すのに難儀したのもある。点滴の他にも週に2回の血液検査の採血、その度に看護師では採血できずに医師の手を借りなければならなかったりと、そう言った苦労もありました。点滴も気圧の差だけでは血管内に液が入っていきにくかったりとか。

抗がん剤の2クール目に平行して行われたのが放射線治療でした。放射線治療についても書くネタがそんなにあるわけではないけど、また改めて。

2025-01-26

病牀雑記(8)

 入院まで

中咽頭ガンと診断されて、以後の予定としては、7月末に入院して外科手術、その後は抗がん剤による治療と聞いていた。7月の間はまだいろいろできるかなと思っていたが、自分でも想像以上に口内の腫瘍が肥大化していった。痛み止めの錠剤が処方されたのだが、そもそも錠剤をそのまま嚥下することすら難しくなってきた。最初のうちは錠剤を二つに割ったり、口の中で噛み砕いて小さくして飲み込むようにしていた。また食事も少量を口に入れて良く噛んでさらに少しずつ飲み込まなければならなくなった。必然、食べる量自体が減る。ゼリー飲料や栄養ドリンクなどが増えていくが、体力が落ちていくのを実感する。
その後も様々な検査があって通院していたが、血液検査の結果免疫力が極端に低下しており、食事量が少ないこともあって、このままでは到底手術に耐えられないと判断され、急遽予定を早めて翌日から入院することになる。とりあえずは点滴や栄養の経管摂取により体力の回復を目指す。

小学生の時に一週間程入院したことはあるが、この年になって実質的には初めての入院生活である。とりあえず2ヶ月間くらいの入院を想定した準備をして、翌日病院へ向かった。

初めての入院生活

スマートフォンにiPad、仕事用のPC、Wi-Fiカード。とりあえずは何とかなりそうだ。日常品はその都度売店で調達すれば良いだろう。院内にはチェーン店のコンビニエンスストアが入っているし、福祉・医療用品を売る店もある。
前日に入院が決まったため、準備も何もなかったが、今改めて振り返っても不足したものは殆どなかったと思う。そして入院して最初の数日間はコロナ等感染症に罹っていないか、確認の隔離のため(差額ベッド料がクソ高い)個室へ半強制的に入れられたのだが、それはそれで良かったと思う。病院での生活ペースに慣れるためにも、最初は個室でのんびりできたことは良かった。そして数日後、四人部屋へと移動した。

四人部屋といっても、基本は病人同士の集まりなので、秩序を乱すような非常識な同室者はいなかったし、カーテン一枚で区切られているので発生する「音」が気になるかと思ったが、おそらくは各々の病気に由来すると思われる音が稀にあるくらいで、特に気にならなかったのは幸いであった。

21時消灯、翌朝6時に点灯、起床。普段は0時過ぎに寝る生活をしていたので、21時消灯はきつかった。ベッドの中でスマホをいじったりして21時に寝ることはなかったのだが、薄暗い中ではどうしてもウトウトしがちである。そして普段よりも早い就寝は変な時間に目を覚ます。今思えば、だが、やはり気管が圧迫されて息苦しかったり唾液が溢れたりでなかなか寝付くことができなかった。浅い、眠りと呼ぶには浅すぎる眠りの中で、夢とも幻覚ともつかない何かを見聞きすることもあった。入院したての頃は、先ずは体力と免疫力の確保が先決だったので、腫瘍に対して積極的な治療を行っていたわけではない。病変はそのままで、痛みや苦しみと言った自覚症状はなかったものの、生活の質は大分低かったように感じる。

あまり明確には覚えていないのだが、この頃には外科手術よりも前に抗がん剤での治療を先行して様子を見るようになっていたと思う。その後に外科手術を行い、放射線治療と抗がん剤を続けることになるようだ。またその時点で8月の退院は無いな、と思った。早くても9月末か。

SNSでは知人たちが外界の夏の暑さを嘆いていたが、私は暑苦しさを知らぬまま8月を迎えようとしていた。

2025-01-19

病牀雑記(7)

 ここからは病気のことを書いていこうと思う。

端緒

今思えば、になるが、自覚症状を感じ始めたのは2024年のゴールデンウィーク明けくらいからだったと思う。GWの前半は発熱で寝こんでおり、特に医者には行かなかったが、発熱と喉の痛みから何らかの感染症だったんだと思う。GWに入る前に某地下アイドルのライブに行き、病み上がり(注:所謂病んでいる方の病み上がりではなく、身体の病気における病み上がりです。)のオタクとMIXを打っていて、ちょっとヤバいかも…とは感じていた。多分だけどその時に感染した気がする。
それでもその時は、一推しである小野田あやささんがMerci Merciを卒業したばかりで、やり切った感とか燃え尽きた感があったのであまり気にしていなかった。で、数日おいて連休に入ると見事に発熱して家で寝こんでいた。連休の中日には出勤できるくらいには回復していたのでその時はあまり気にしてはいなかったのだが、喉に違和感、そしてリンパ節が少し腫れている感じもあったことは覚えている。そして喉の違和感は口内の違和感へ変わっていく。舌の付け根に違和感というか異物感を感じるようになっていく。それを意識するようになったのが5月の半ば過ぎから後半だっただろうか。

舌根におできのようなものができていて、最初のうちは異物感だけで済んでいたのが、日が経つにつれてそのおできは大きくなり日常生活にも影響し始めた。最初は舌がもつれるような感じで、言葉を発音するのに支障が出始める。呂律が回りにくい状態か。そしてそれが徐々に悪化している自覚もあった。しかしJuice=Juiceの植村あかりさんの卒業コンサートはどうしても外せなかったので、6月の半ばまではそのまま何とかやり過ごしていた。やがて、呂律が回らない状態に加えて、唾液が溢れやすくなってきた。特に寝ている間に唾液というかよだれが溢れていることが増えたし、その不快感のせいで夜も途中で目が醒めたりして睡眠不足気味にもなっていた。
そして何よりも不具合を感じるようになったことは、口の中のおできが大きくなってきていて、物を食べる時に以前と同じ量を口に入れることができなくなり、食べる速度が遅くなってきたこと、またそれ故に食べている途中で食欲がなくなってしまい、食事を残すようになってきたことである。発話と食事の不具合が進行してきて、愈々日常生活に支障をきたし始める。

うえむー(植村あかり)の卒コンを終え、仕事の方も何とか一段落付けた6月の末、ついに職場近くのクリニックを訪れた。ここまで来るともう、通院しながらの治療で済むとは考えられなかったので、入院を覚悟してのことだった。(そのためもし入院することがあっても問題が最小限で済むこのタイミングを待った。)

初診

その日は出社して1時間程度で残務を終わらせて、職場近くのクリニックへ行き診察を受けた。するとドクターから、「紹介状を書くから、今からこの足で紹介先の病院へ行き、検査してもらうように。仕事は、今日はもう休みなさい」と、TVドラマで見たことがあるようなことを言われた。この足でこのまま向かえと言われたものの、一度職場に寄って簡単に事情を説明してから紹介先の病院へと向かった。この日は梅雨時で雨が降っていて、雨の中幾分興奮気味に歩いて行ったのを覚えている。

紹介された病院に着き、紹介状を添付して受付を済ませたが、午前中の診察は終わっていたので、午後からの診察を待つことになった。やはり気分は高揚していたので、昼食も摂らずに(この頃はすっかり食べる量も減っていたが)辺りで時間を潰して、指定された時間に病院へ戻ってきた。

先ずは診察、そして検査、検査。この日だけでは検査が間に合わず、後日CTやらMRIやらをいろいろ受ける羽目になり、診断結果は一週間後ということになった。この時点でのドクターの所見は、中咽頭ガンの疑いとのことであった。

自分で勝手に舌ガンかもなあ、等と思っていたが、舌根部以外にもリンパ節も腫れていて、舌の部分以外にリンパ節も生検検査をされたので、そういうことなんだろうと思った。そして現時点では、「ガンの疑い」とのことだが、おそらくは、多分、自分はガンなんだろうな、と確信していた。
くよくよしていても仕方がない。ともかく検査を複数受けなければいけないし、いよいよ仕事したりアイドル現場に遊びに行ったりしてる場合じゃなくなるな、などと覚悟をしたりもした。

匂わせ

診断結果が分かる前にライブ現場が入っていて、そこで自分の推したちに病気のことを明かすべきかどうか非常に悩んだ。

元来、いや今でもだが、ライブやイベント、ステージでの活動を生業としているアーティストに対して、その現場に行けないことを言い訳することは禁じ手である、と言うのが私のポリシーである。行けないことは黙っていれば良い。行けないことの言い訳を聞かされるアーティストはどんな気持ちか。行けない言い訳など、醜い自己弁護に過ぎないではないか。

この時のように、どうしようもない事情で現場に行けなくなるのならば、いっそそのまま相手のアーティストの記憶から忘れ去られた方が幸せではないか。下手に同情されるよりも、スッといなくなる方が気が楽だ。

しかし、Merci Merciと、一推しの小野田あやささんについては、現場の特典会でそれとなく事情を明かすことにした。特にあやさんの舞台については既にチケットも取ってあり、そのことをあやさん本人も知っていたし、今まであやさんを一推しとして推してきた実績が自分のポリシーを曲げた。

この頃は明瞭に発話することが難しかったので、スマートフォンに予め言いたかったことを打っておき、その画面を見せながらのお話し会となった。たださすがに病名(疑い)までは明かさずに、喉の方に不調があって言葉が喋れないこと、手術や入院しての治療が必要になりそうなこと、もしかしたらちょっと時間がかかるかもしれないこと、などを伝えた。

自己弁護、言い訳に過ぎないことは分かっていたが、いきなり現場からいなくなることによって与える心配の方をなくしておきたかったのだ。

診断結果

初診から一週間後、親族である兄と一緒に診断結果を聞きに行った。

やはり、中咽頭ガンであった。ステージ4。

生検検査でも悪性の腫瘍がみられた。但し不幸中の幸いか、食道や肺など他の部位への転移はなかった。

2025-01-15

病牀雑記(6)

 経緯

いきなり(6)からかよ!と言う話ですが、実は前からnoteの方で書き綴っていてたところ、色々心境の変化がありbloggerも復活させようかな、と。そしてタイトルにもある通り「病牀雑記」である。確か芥川龍之介のエッセーにそんなタイトルがあって、まさに自分の入院中に電子書籍で芥川のエッセーを読み、何となく同タイトルでnoteの方にポツポツと記事を書いておりました。そこではタイトルこそ病牀雑記を銘打っていたものの、病気とはあまり関係のない、通信環境などの話題が主でしたが。

私が入院したのは昨年(2024年)の七月。その後転院を経たものの、年が明けた今も入院中である。入院した当初は秋口には退院できているつもりだったが、思っていたよりも治療の効果が認められず、今に至る次第である。半年近くにも及ぶ入院生活、そしてすぐに退院できるとは言えない状況で、病気のことや自分の生に与えている影響、あるいは生への向き合い方と言った事柄についても何か書き記したいとの思いが強くなった。そこで改めて、自分にとってBlogの原点でもあるbloggerで書いていこうと思い立った。

思えばこのbloggerを始めたのは2006年で今から二十年近く前のことだ。(最初のエントリー:夏焼トンネル)ここ最近と言うか、この十年くらいは殆どblogを書いておらず密度で言ったら二十年分の半分以下の薄さだと思うが、ともかく二十年前というのは自分でも驚きだ。それこそHello! Projectのオタクになりたての頃だし、そもそもがハロヲタ話を書きたくて始めたbloggerであった。それが今や、ハロプロのファンクラブ(ハロプロ及びM-Line)には辛うじて入っているものの、一推しはハロプロはおろかUp-front所属ですらない小野田あやさである。細かいことを言うと、彼女はスペースクラフトに所属する前は演劇女子部の演劇に出演しており、『恋するハローキティ』(Juice=Juice版)で見かけたのが最初のきっかけだったので、Up-frontと全くの無関係とは言い難いところはありますが。ともかく、ハロヲタ話を書きたくて始めたこのbloggerだが、アイドルとは関係のない内容の記事も色々と書いており、純粋にハロヲタブログであるとは言い難いだろう。要は、私の個人的な日記だった言うことなんだと思う。そして原点でもある。

2010年代になって記事を書かなくなったのはやはりTwitterが原因だろう。ここに限らずmixiの日記なども殆ど書かなくなった。百数十文字という制限はあるが、リアルタイムに心の中を吐き出していると大方表現欲は満たされるものだ。その表現内容の良し悪しは置いておいて。

そして去年の7月、いよいよ入院となりました。と言っても院内で日常生活を送る分には支障は無く、時間を持て余すことになる。スマートフォン、iPad、ノートPC(仕事用)等々、電子デバイスは持ち込んでいたので、持て余す時間の過ごし方は最初のうちはコンテンツの消費に走る。動画もよく見たけど、相部屋なのでイヤホン必須だし目も疲れるしなので、電子書籍で文字コンテンツをよく読んだりもしました。インプットばかりの毎日が続くと自然にアウトプット欲も湧いてくるものだが…病気のことを具体的に書くのも気が引けていたと言うか、そこまでの覚悟は持てていなくて、何となく当たり障りのない、ガジェットや通信環境の話などをnoteに書き連ねておりました。

だが入院生活も半年を越えて、退院の目処も立たない今、やはり病気にまつわる事柄について語らないわけにもいくまいと感じるようになった。かな苫庵と言う原点に回帰して、アウトプットして行こう。

病気を公言することについて

家族親族、親しい友人、職場の人たちに対しては当然今罹っている病気のことを明かしているが、その中でも友人たちについては明かした人と明かしていない人との基準は曖昧と言うか、気分次第なところが大きい。入院した当初はこんなにも長引くとは思っていなかったし、3ヶ月程度で社会復帰できると踏んでいたから尚更だ。

また、所謂地下アイドルと呼ばれる人たちの中でも私を私として認識されているアイドルの子たちに対して、敢えて明かしてはいない。一推しの子には、しばらく入院しなければいけないことなどを明かしたが、それも彼女だけだ。ライブパフォーマンスを生業とする演者に対して、現場に行けない言い訳をするのは自分の主義に反するからだが、一推しの彼女にだけは伝えておきたかったのだ。それはもしかしたらもう二度と会うことができなくなる可能性もあったからだ。他のアイドルであれば、現場に会いに行けない私のことなど忘れてもらった方が気が楽だし、次来れるかな? 等と期待を持たせるのも心の負担になるだけだ。

結局、Xでも(身バレしていない他のSNSでも)罹っている病気について公言はしていない。入院していることは匂わせたり、サラッと書いたりしていたが、具体的な病名などについては触れていない。カミングアウトすることが怖いと言えば怖い気もするし、単に同情を買いたくないだけのような気もする。そしてこのタイミングで、今ココで明かすことに躊躇いが無いわけではない。躊躇いだらけである。

気持ちを整理するために、ここで一旦区切ろうか。(笑)

2023-08-06

クレジットカードとかその周辺をどうするべか?

ここ最近で有効なクレジットカードを列挙してみる。

  • 人生で一番最初に作ったクレジットカードは、ユースホステル会員券が付属している…二輪のホンダのHEART(DC/VISA)…→二輪から四輪に移行したこと、ユースホステルを使うことも無くなったことから比較的早目に解約済み。
  • カメラのきむらカード(DC/VISA)→カメラのきむらが合併吸収?されて無くなった時点でエッジオンカードに強制移行→ぐだぐだ残してた気がするが、消滅。
  • ハロプロゴールド(三住/VISA)→ゴールドはやめたいけど、依然としてメインカードではあるね。なのでゴールドをやめるのも面倒かな?色々なところで決済手段にしている上にそれらを今さら替えるのも手続が面倒臭いし。
  • ANA SFC(三住/VISA)→作った当時ほど飛行機に乗る機会は激減したけど、せっかくSFCゲットできたんだから今さら解約する手はないかなあ、年会費高いけど、年に数回はANAに乗るのでラウンジやら予約時の何やらでキープしておくか。
  • VIEW CARD(VISA)→多分、ゴールドにするべき筆頭がこれ。ハロプロ以外だとこれかPayPayくらいしか。ハロプロカードが無ければ一番実利がありそう。Suica/JREポイントは大きい!
  • HONDA CARS(DC/VISA)→ホンダ車に乗っている以上は…だが、最近はPayPayもつかえるらしい?だったらいらない気がするが、まあ、残しておくか、だけど、次に減らすとしたらこれが筆頭かな。
  • JR東海エクスプレスカード(JCB)→東海道新幹線も乗る機会が減ったなあ。そしてセディナから三住に移行する関係で2023年の秋からJCBはなくなると。EX予約は置いておいて、ファミペイとかのコンビニ系のPayだとJCBが必要なのよ。元々はガラケー時代にVIEWカードとモバイルSuicaの特約でEX予約を使っていたところ、JCBが欲しくて敢えてJRCのエクスプレスカードを作ったのよね。それが今秋からJCBが終わると。東海道・山陽・九州新幹線に乗る機会も減ったので年会費を払う理由も微妙になったし、またVIEW特約に戻るかスマートEXにするか、ですな。だが新幹線のオンライン予約自体はもう離れられない。
  • TOHO CHINEMAS(セゾン/MASTERS)→作ったのは2022年で、TOP GUN MAVERICKS見まくっていた時だ。そしてその後映画を見る機会も減り、マスターカード保持のためだけに持ってる感じ。しかし、nanacoチャージにはJCB以外にマスターカードも行けるので断然保持する気が出てきた。(その前にもっと映画館行け! てかセゾンなのに何でファミペイにチャージできないんだよ…。)
  • PayPay後払い(JCB)→未だバーチャルカードのままだけど、VIEWカードの次にゴールドにしたら良さげなのがこれ…なんだが、いかんせんメインバンクの某地銀に対応していないのよね。それのためだけに俺的には使い勝手が悪い。上記エクスプレスカードのJCBブランド終了に伴って、JCBはPayPayに絞ろうかと思ったけど、引き落とし先が俺のメインバンクに対応していない。
  • 楽天カード(JCB)→色々逡巡した結果、JCBは楽天カードを申し込んだ。年会費無料だし、サブスマホも楽天回線使ってるし、俺のメインバンクの地銀に対応してるし。
人生初のクレカ、ホンダ二輪のHEARTカードからずっとVISAばかりを使い続けて来た。それから数十年、いろいろあって、マスターもJCBも必要になった。ハロプロが要らなくなったらやはりメインのカードはVIEWカードかな。PayPayが俺の地銀に対応するようになれば…。