2025-03-05

病牀雑記(11) 9.5

最近、病状に変化があったこともあって余裕を失っていたこともあり、入院後の経過を飛ばしてしまった感。本来であれば放射線治療のことを書こうと思っていました。が、結構前の話になるし、何か書き留める程のネタがあるかと言われるとあまり思い浮かばないので、何となく覚えていることだけを記録しておく。時系列的には雑記(9)の後になるので、9.5とナンバリングしました。物理的には(11)、論理的には9.5と言うことで。

放射線治療

抗がん剤と並行して放射線治療が始まった。基本的に平日毎日(土日祝は休み)実施で9月下旬から11月上旬まで続いた。照射する部位が喉〜顎〜口の辺りになるため、副作用も口内の炎症も予想されていた。照射を開始して一週間程は見た目にも特に副作用はなし、二週目くらいから首筋が日焼けしたかな程度に赤らんできた。口内の違和感は開始前からあまり変わらなかったと思う。元々唾液の分泌が過剰気味だったが、増えも減りもしなかったように思う。口内炎的な炎症と言うか、舌が痺れる感覚は出てきた。その後は舌が痺れたり若干の炎症が口内にみられ、首筋の皮膚が変色してかさぶたになったりしていたと記憶している。

その間も痛みに苦しむようなことはなかったのだが、密かに処方されていた痛み止めの薬効で痛みを感じていなかっただけなのかもしれない。気持ち的には、放射線よりも抗がん剤による副作用の方がきつかったと思う。今思えば、基礎体力は増えていないのに、生食静注で身体全体が水膨れ、体重が6kg近く増えた状態はかなりしんどかった。歩いたりするだけでも水分で体重が重くなっている身体は結構しんどいものがある。それを考えると放射線の副作用はあまり気にならないレベルだったかと思う。

髪の毛がひどく抜けるようなことは無くなっていったが(むしろ最悪の時よりも髪の濃さが戻ってきたと思う。)、放射線が直接照射される髭は全く無くなってお肌トゥルトゥルになりました(笑)。病院からはずっと皮膚の塗り薬を処方されていたが、あまり熱心に塗っていなかったと思う。あと口内の炎症を抑えるようなうがい薬も同様に殆ど使わず終いだった。今でも少し舌の痺れなどが残っているが、うがいをサボったからかどうかは分からない。

治療の終了

二回の抗がん剤治療と放射線治療は11月の上旬で終了した。あと1回分だけ投薬が残っていたが、身体への負担を考慮して放射線治療と同時に投薬も中止となり、所謂がんをなくしていく積極的な治療は終了した。以降は、治療の効果が現れるのを期待して待ちつつ、身体のケアをする時期となる。副作用は残っていたが、それも徐々に良くなって行くのを実感できたし、少しずつではあるが(また主観的ではあるが)腫瘍も小さくなっていっているようだった。

フィジカル、メンタル共に一番静穏な時期だったように思う。定期的な検診や検査の他はあまりすることもないので、インターネットの通信量もピークだったのではあるまいか。仕事の方も、会社からは休職を言い渡されたので必要以上に仕事に関わることはしなかったし、ひたすらインターネットで動画やら何やらを見て過ごしていたと思う。ひたすらコンテンツ消費に励んでいました。

病院とは今後の方針を相談するようになった。今の医学においてできることは全てやった状態、言葉を変えればこれ以上やれることはない、と言うことを説明された。勿論、標準治療以外の手段が無いことはないが、費用と実際の効果を考えればあまり現実的ではない。1分1秒何が何でも延命しなければならないような状況でない限り、人事は尽くしたと言うことだ。そうした状態で、今この病院に居続けるよりも地元に近い病院で緩和ケア病棟へ入院することを勧められた。あくまでもここは積極的な治療を行う場であり、今はもうその役割を終えている。勿論患者である私自身が望むのであれば入院を継続することも可能だが、費用的な面からもあまり勧められないとのことだった。

緩和ケアの段階へ

本来であれば、退院して自宅での療養とするのが望ましい。しかし私の場合、口からの食事ができない、カニュレを入れているために定期的なメンテナンスが必要であることから自宅での療養は実質上無理である。結局、生命維持の為にはそれなりの医療機関にお世話になるしかないのだ。ある程度の食事が可能になるよう、口内の状態が良くなればいいのだが、食事が可能な状態になるにしても結構時間がかかるであろうとの判断だった。個人的には、喋れるようになることと口から食事ができるようになることを目標にしていたのだが、入院当初から抱いてきたその目標は挫けることとなった。腫瘍が小さくなって、食事や呼吸を阻害している原因がなくなれば…と思っていたことがほぼ困難と自覚させられたことで、一つの気持ちの区切りになったと思う。

一つの覚悟。

これは今後の社会復帰等の見通しを考える上で重要な区切りとなった。入院した当初はいつからアイドル現場に復帰できるか? を常に考えていたので、アイドル本人に今の病状などを言うつもりは無かったし、次に会える現場のことをあれこれ思い描いて行動していた。しかしこの覚悟を持った時点で、アイドル現場への復帰は諦めた。外に対してそうは言わなかったし、可能性ゼロとして完全に諦めたわけでは無かったが、まあ余程のことが無い限り復帰はないだろうなあ、と思っていた。その余程のことに今でも希望を抱いてはいるけども。

治療が終了してから、親族の協力で転院先の緩和ケア病棟がある施設を探し始めた。複数の病院をあたってもらって、なかなかの好条件な病院に転院することが決まった。その病院は私の自宅からも、親族の家からも程近い立地にあり、外出や面会などの条件もかなり患者に寄り添うものであった。一時帰宅や外出が可能なこと、親族であれば24時間、更に宿泊しての見舞いも可能であること、等々。
後は転院の日程などを詰めるだけとなり、約5ヶ月に及ぶ都内の大学病院での入院生活を終えて地元へと戻ることとなった。

入院した当初は「根治を目指して」との言葉に勇気づけられたが、こうなってしまったのは無念である。だが人事を尽くしてもらえたことはこの身を以て実感していることなので、医師や看護師、スタッフの皆さんには感謝しかない。

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