2025-03-10

HONDA党宣言

共産党宣言のパクリではない。

入院中の今もクルマを保有したままで、兄に管理を任せている状態である。売却するのなら早目にするのが良かったのだが、買ってから未だ一年程しか経っていなかったこともあり、なかなか踏ん切れなかったのだ。入院した当初は数ヶ月で退院できそうな見通しでもあったし。また兄は兄で自分のクルマを持っているので、バッテリー等が上がらない程度に私の車も時々乗ってもらうようにしていた。都内の病院から転院した際も、私のクルマを出してもらったことは病牀雑記の方で書いた通りである。転院した後も週一程度で自宅へ一時帰宅する際は兄に私のクルマを出してもらっていた。私の体調が良かった時は少しではあるが、私自ら運転をしてみたりもした。

しかしこの状況でローンを払い続けるのもどうよ? 的なところもあって、ぼちぼち売却するタイミングかなあ、と。税金や任意保険の更新時期でもあるし。クルマというのは本体以外にも諸々付随する出費も多いことを実感する。

と言うわけで一旦は売却する方向で決断し、ディーラーにも話をしに行ったのが今日のこと。それでこのクルマに乗るのも最後になるかとも思ったので、兄に頼んでまっすぐ帰らずに少し辺りを回ってもらうことにした。

楽しい。自分で運転せずに助手席に座っていただけだが、やはり乗っていて楽しいクルマである。それには兄の運転が上手いということも大きい。

18歳の時に原付の免許を取り、半年後に中型自二、更に遅れて四輪の免許を取ったが、最初に乗ったスクーターから四輪自動車までずっとホンダの乗り物に乗り続けてきた。そして、二輪にせよ四輪にせよ、運転の見本だったのはずっと兄だったのである。兄弟で色違いのNSRに乗っていたこともあったし、私がCR-X del sol、兄がCIVIC(共にSiR)なんてこともありました。兄のバイクの後ろに乗せてもらったことも、助手席に乗せてもらって峠を攻めてもらったことも良き思い出です。自分がHONDA党なのも確実に兄の影響だろう。

ここ最近で、兄が運転するクルマ(マニュアル車)に乗る機会が俄然増えたわけだが、こうして時を経ても、「この人にはやっぱり勝てないなあ」ということを実感させられる。普段乗っている自分のクルマはCVTのオートマチックなのに、ギアの操作の上手いこと。勿論、シフト操作だけではなく、運転操作全般での話である。

辺りを走ってみて、売却する決断をしたものの、やはり手放すには惜しいクルマだ。現実も考えてもう少しだけ考えてみることにする。兄にしても自分のクルマから私のクルマに乗り換えるのもアリか、と考えたこともあったそうで。

「これがCIVICのType Rとかだったら迷わず売ってたんだけどな」(Type Rだったら高出力過ぎて今の自分の手に余り、即事故りそうだから)とはその兄の言葉。

はてさて、どうなることやら。

2025-03-08

病牀雑記(13)

失われたもの

ここいらでナンバリングと時系列を戻す。以降はリアルタイムでの雑記を目指し、過去の振り返りがあってもそれはあくまでも「今、過去を振り返っている」と言うことで。
今回は感覚にまつわる話。

オピオイドとアセトアミノフェンの二本立てで過ごすようになり、とりあえずはその状態が持続している。突発的な痛みが来ることもあるが、10〜20分程度安静にしていれば落ち着く。カロナールを投与して効き始めるまでも同程度の時間はかかるので、何とかこなせている。なのであまり変わりは無いと言えば変わりないのだが、できるだけ安静でいたいが為に活動量が落ちていることは自覚している。

今までも書いてきたが、カニュレを入れていることから呼気・吸気ともに、基本的には声帯から上部、つまり口から鼻を通ることは無い。その為に嗅覚が失われた。鼻詰まりで常にティッシュペーパーで鼻に栓をしている状態に近いだろうか。
それに加えて味覚も大分失われている。臭いが分からないのと、今は治まってきているが放射線治療の影響で口内〜舌がピリピリするような感覚である。
そして感覚とは違うが、飲食物を口から飲み込みにくいと言うこと。よって食事は鼻から食道に通した管を通して、流動性の栄養を摂取している状態である。
これらが転院前から失ったものであった。

そして年明け前後か、カロナールを投与し始めた頃からか、耳が詰まる感じがし始めた。耳がボワボワして音が聞こえにくい感覚。頭を傾けると内耳の奥の方で液体が動く感じがしたり、頭の向きで耳の閉塞感や聞こえが変わる感じがあった。

加齢の影響もあってか、あるいは元々から聴覚はあまり良くなかった。声が小さい人や、マスクをしていて発音を明瞭に聞き取り難い時などは日常会話でも難儀することも多かった。特にヒソヒソ声で大っぴらに話せないことを話される時は、実はあまりちゃんと聞き取れていなかったという。何度も聞き直すのが憚れる内容の時などは何となくの概要だけで、肝心のことは聞き取れていなかったりしたものである。

そうした状況に加えて聞こえが悪くなった。時間の経過と共に聞こえは悪くなっていくのを感じ、痛みが徐々に増えていくのとシンクロしているようにも思えた。元々良くは無かったとは言え、聴覚までとは…。
これは人とコミュニケーションを取る上で大きなストレスとなったし、日常生活でもかなりの不自由だ。例えばPCやスマホで動画を鑑賞するにしても、折角の個室ということを活かして、イヤホンやヘッドホンを使わずに内臓のスピーカーで音を出したいところだが、やはり聞こえが悪い。イヤホン/ヘッドホンを使った方が音は聞きやすい。

こうして少しずつ何かを削られ失われていく感覚もなかなかにしんどいものがありますね。

以下雑談。

ブログの更新をXの鍵垢の方で共有するようにしていたが、病気の経過を時系列で追うのは前回で大体終えたし、今後はその時々の思いやあれこれを書き連ねることになりそうなので、Xでの共有も以降は気分次第かな。

病牀雑記以外のこともなるべく書いていこうと思う。またXでの共有も鍵垢以外に表のアカウントでもして行こうか。鍵垢で共有したところで、このブログ自体は閲覧を許可された人以外に読めないわけではないし、ただ人目に留まりにくいというだけの話。

表アカでもブログ更新の共有をすれば、病気のこと、病牀雑記が目に留まることもあるだろう。病気のことを隠すつもりはないけど、公開するタイミングを逸した感が強く、どうしたものかと悩んでいたところではある。またその時の気分次第でどうなるか分からないが、いずれにしても暖かい目で見守っていただければと思います。

2025-03-07

病牀雑記(12) 9.6

引っ越し。新橋から千葉県へ

12月の或る日、午前中。約5ヶ月ぶりに我が愛車・HONDA N-ONE RS 6MTを病院の地下駐車場で対面した。勿論、運転するのは兄であるが、この日の転院の為に兄はわざわざ私の愛車を出してくれたのだ。普段兄が乗っている車はオートマチック車だと言うのに、それも平日の都内まで自分の車ではなく私の車を出してくれたのは感激であった。

数ヶ月ぶりの、娑婆の空気。入院した頃とはうって変わってすっかり冬の様相を示している。しかし車内にいる限りは寒さも感じない。都内から自宅へ、結局下道で二時間弱のドライブとなった。この頃は数時間おきに溜まった痰を除去してやらないといけなかったのだが、移動中は心配するようなことも無く、無事に我が家へ到着する。
さほど時間に余裕があるわけでは無いので、服装等季節ものの交換、無くて不便していたものをピックアップしたり逆に不要となったものを置いたりなどの雑用をこなす。入院直前の状況を目の当たりにしてとても懐かしい。用事を済ませると転院先の病院へ移動する。

転院の手続や検査などを済ませると早速病室に入る。緩和ケア病棟と言うことで、基本全室個室なのだが、生憎空きがなかったので、差額料金が必要な特別個室に一先ずは入室することになった。差額料金と言っても、都内の病院とは比較にならない程安価ではあるが。(その後、二週間もしないで普通の個室に移動できた。)

個室の快適さ、緩和ケアの意味

長らくカーテン一枚で仕切られた4人部屋から、いきなり個室へと移動してとても快適であった。TVやYouTubeを見るにしてもイヤホン・ヘッドホンがいらないし、トイレや洗面所が自分専用であることも心強かった。今では無くなったが、利尿剤を入れている時にトイレに立っても先客がいた時の絶望感を味わわずに済むのである。今でこそ告白するが、前の大部屋の時はいろいろ間に合わずに下着を汚したことも数度ありました(涙)。

ここまでの移動をアシストしてくれた兄も帰ると個室に一人。カーテンで区切られた大部屋でも、そのカーテンの中では一人であるが、その実感は全く異なる。またこれならリモートワークも前よりも集中してできそう。そして何よりも、楽天モバイルの電波が4Gではあるが途切れずに安定して入る! 勿論メイン回線のソフトバンクモバイルも5Gで安定している。これは捗りますね(何が?笑)
そのお陰でサブ(楽天)のサブ回線だったmineoも解約しました。行く行くは楽天もやめてPixel 8aも人に譲るなりするかなあ。

個室が快適な分、持ち込むものも増えたり、通販も普通に使ったりして悠々自適な日々を行っていました。こうして普通の病棟よりも緩く快適なのは、やはりここが緩和ケア病棟だからだろう。

ある日、郵便物を投函しに病院内のポストへ行った帰りに、エレベーターから下りてきたのは御遺体と御遺族の方々であった。私が転院してきてさほど時間を待たずに普通個室へ移動できたのも、病室に空きができたからである。それが必ずしも死によるものとは限らないし、一月以上この病棟に入院していても患者さんが亡くなられるところを知ることは無かった。それでもこの時の光景は、自分が今いる環境を強く自覚することとなった。

自分では、食事とカニュレのことがあるから緩和ケア病棟に入院しているのだと言い聞かせ、周囲にも言っていたが、それだけでは無い、重い現実から目を反らしていたのだ。

話が前後するが、転院してから己の誕生日、そして新年を迎えた頃は、治療が終了した頃と同等かそれ以上に上調子だったと思う。また週に一回程度の頻度で自宅へ一時帰宅することも叶った。
治療を担当した主治医の元を離れることには当初抵抗もあったし、前の病院の方が安心なところもあったが、体調が落ち着いていたこともあって、やがてそのような不安は払拭されていった。

2025-03-05

病牀雑記(11) 9.5

最近、病状に変化があったこともあって余裕を失っていたこともあり、入院後の経過を飛ばしてしまった感。本来であれば放射線治療のことを書こうと思っていました。が、結構前の話になるし、何か書き留める程のネタがあるかと言われるとあまり思い浮かばないので、何となく覚えていることだけを記録しておく。時系列的には雑記(9)の後になるので、9.5とナンバリングしました。物理的には(11)、論理的には9.5と言うことで。

放射線治療

抗がん剤と並行して放射線治療が始まった。基本的に平日毎日(土日祝は休み)実施で9月下旬から11月上旬まで続いた。照射する部位が喉〜顎〜口の辺りになるため、副作用も口内の炎症も予想されていた。照射を開始して一週間程は見た目にも特に副作用はなし、二週目くらいから首筋が日焼けしたかな程度に赤らんできた。口内の違和感は開始前からあまり変わらなかったと思う。元々唾液の分泌が過剰気味だったが、増えも減りもしなかったように思う。口内炎的な炎症と言うか、舌が痺れる感覚は出てきた。その後は舌が痺れたり若干の炎症が口内にみられ、首筋の皮膚が変色してかさぶたになったりしていたと記憶している。

その間も痛みに苦しむようなことはなかったのだが、密かに処方されていた痛み止めの薬効で痛みを感じていなかっただけなのかもしれない。気持ち的には、放射線よりも抗がん剤による副作用の方がきつかったと思う。今思えば、基礎体力は増えていないのに、生食静注で身体全体が水膨れ、体重が6kg近く増えた状態はかなりしんどかった。歩いたりするだけでも水分で体重が重くなっている身体は結構しんどいものがある。それを考えると放射線の副作用はあまり気にならないレベルだったかと思う。

髪の毛がひどく抜けるようなことは無くなっていったが(むしろ最悪の時よりも髪の濃さが戻ってきたと思う。)、放射線が直接照射される髭は全く無くなってお肌トゥルトゥルになりました(笑)。病院からはずっと皮膚の塗り薬を処方されていたが、あまり熱心に塗っていなかったと思う。あと口内の炎症を抑えるようなうがい薬も同様に殆ど使わず終いだった。今でも少し舌の痺れなどが残っているが、うがいをサボったからかどうかは分からない。

治療の終了

二回の抗がん剤治療と放射線治療は11月の上旬で終了した。あと1回分だけ投薬が残っていたが、身体への負担を考慮して放射線治療と同時に投薬も中止となり、所謂がんをなくしていく積極的な治療は終了した。以降は、治療の効果が現れるのを期待して待ちつつ、身体のケアをする時期となる。副作用は残っていたが、それも徐々に良くなって行くのを実感できたし、少しずつではあるが(また主観的ではあるが)腫瘍も小さくなっていっているようだった。

フィジカル、メンタル共に一番静穏な時期だったように思う。定期的な検診や検査の他はあまりすることもないので、インターネットの通信量もピークだったのではあるまいか。仕事の方も、会社からは休職を言い渡されたので必要以上に仕事に関わることはしなかったし、ひたすらインターネットで動画やら何やらを見て過ごしていたと思う。ひたすらコンテンツ消費に励んでいました。

病院とは今後の方針を相談するようになった。今の医学においてできることは全てやった状態、言葉を変えればこれ以上やれることはない、と言うことを説明された。勿論、標準治療以外の手段が無いことはないが、費用と実際の効果を考えればあまり現実的ではない。1分1秒何が何でも延命しなければならないような状況でない限り、人事は尽くしたと言うことだ。そうした状態で、今この病院に居続けるよりも地元に近い病院で緩和ケア病棟へ入院することを勧められた。あくまでもここは積極的な治療を行う場であり、今はもうその役割を終えている。勿論患者である私自身が望むのであれば入院を継続することも可能だが、費用的な面からもあまり勧められないとのことだった。

緩和ケアの段階へ

本来であれば、退院して自宅での療養とするのが望ましい。しかし私の場合、口からの食事ができない、カニュレを入れているために定期的なメンテナンスが必要であることから自宅での療養は実質上無理である。結局、生命維持の為にはそれなりの医療機関にお世話になるしかないのだ。ある程度の食事が可能になるよう、口内の状態が良くなればいいのだが、食事が可能な状態になるにしても結構時間がかかるであろうとの判断だった。個人的には、喋れるようになることと口から食事ができるようになることを目標にしていたのだが、入院当初から抱いてきたその目標は挫けることとなった。腫瘍が小さくなって、食事や呼吸を阻害している原因がなくなれば…と思っていたことがほぼ困難と自覚させられたことで、一つの気持ちの区切りになったと思う。

一つの覚悟。

これは今後の社会復帰等の見通しを考える上で重要な区切りとなった。入院した当初はいつからアイドル現場に復帰できるか? を常に考えていたので、アイドル本人に今の病状などを言うつもりは無かったし、次に会える現場のことをあれこれ思い描いて行動していた。しかしこの覚悟を持った時点で、アイドル現場への復帰は諦めた。外に対してそうは言わなかったし、可能性ゼロとして完全に諦めたわけでは無かったが、まあ余程のことが無い限り復帰はないだろうなあ、と思っていた。その余程のことに今でも希望を抱いてはいるけども。

治療が終了してから、親族の協力で転院先の緩和ケア病棟がある施設を探し始めた。複数の病院をあたってもらって、なかなかの好条件な病院に転院することが決まった。その病院は私の自宅からも、親族の家からも程近い立地にあり、外出や面会などの条件もかなり患者に寄り添うものであった。一時帰宅や外出が可能なこと、親族であれば24時間、更に宿泊しての見舞いも可能であること、等々。
後は転院の日程などを詰めるだけとなり、約5ヶ月に及ぶ都内の大学病院での入院生活を終えて地元へと戻ることとなった。

入院した当初は「根治を目指して」との言葉に勇気づけられたが、こうなってしまったのは無念である。だが人事を尽くしてもらえたことはこの身を以て実感していることなので、医師や看護師、スタッフの皆さんには感謝しかない。