2025-04-10

集音器(hearing earphone)についての覚え書き

このところ病気の影響からか聴力が落ちている。そのままの状態だと、相手の声をほとんど聞き取ることができない状態である。面会の時など、ある程度まとまった時間人とコミュニケーションを取る必要がある時は、AirPods Proを出力に、iPhoneを入力にして集音器代わりにして補助的に利用していた。静かな部屋の中で相手の声を聞く分にはそれで何とかなっていたが、やはりイヤホンの補助的な機能であるし、使用できるまでセッティングに少々手間取ることもあって、集音器の導入を検討していた。要は人が来た時にパッと装着して直ぐに使いたかったわけです。

私の母親も老齢による難聴で、集音器を使っていたことがあった。どうも使い勝手は良くなかったみたいで、ノイズばかりがうるさくてほとんど使わないうちにどこかへやってしまったみたい。また職場の上司も集音器を買ってみたものの、ノイズやハウリングがうるさくて…という話も聞かされていた。上司はその後たまたま自分に合ったものが見つかったようで、そちらを普段から常用しているようだった。

ここで、「補聴器じゃいかんの?」という疑問を持つ方もおられると思う。補聴器レベルになると使用者の特性に合わせ、イヤホン部分も使用者の耳の形に合わせるなど本格的なんだけど、問題はお値段。大体20万円くらいからになるのではないかと。
それに比べていわゆる「集音器」であれば、ピンキリではあるものの、数千円から2〜3万円くらい?であるし、Amazonなどでも気軽に入手可能である。
この辺りは、自身の状態と相談して…ということになると思うので、医師やショップの人と相談して決めていただければと思います。自分も、ほぼ、静穏な病室内で過ごしていることを考えると安価な集音器で良いのではないか?と主治医からアドバイスをもらって、Amazonで集音器を購入した。

値段は一万円強、今風のワイヤレスイヤホンタイプにした。Bluetooth接続することでイヤホン/マイクとしても使えるようだけど、勿論自分はBluetooth接続は使っていない。そして第一印象は正直「失敗したか!?」だった。ケースからワイヤレスイヤホン風集音器を取り出し耳に装着するだけで使用可になるのだが、いきなりピーピーピーというハウリング警告音が止まない。説明書によればきちんとした位置に装着し、イヤーピースも自分に合ったものを、とのことだったので、試行錯誤というよりは悪戦苦闘する感じで位置決めをした。結構強引にねじ込んだ感があります。イヤホンの外側を向いている平面部をタップすると音量調整ができて、その度に音声ガイダンスが流れるのだが、その音声ガイダンスを聞き取ることができて、ハウリング警告音がしなければ、外部の音が明瞭に聞こえているはずである。

イヤーチップは大・中・小の三種類が付属しているが、私の場合は標準で付いていた中でOK、使い始めてまだ数日だがうまく行くと10秒経たずにベストポジに装着可、というところまで来た。やはり耳の内側と外側とできっちり音を分離できないと本領を発揮できないようだ。バッテリーの持続時間は連続使用で公称10時間とのことだが、ちょっとあやしいというか短い感じ。その為(病室に一人でいることが多いので)しばらく聞き取りをしなくても良さそうな時は耳から外して充電するようにしている。非常事態を考えると常用しておきたいところだけど…。以下、私自身の個人的感覚になるが、低音が弱く高音がちょい刺さる感じ。音量は4/6〜 5/6くらいが自然な感じがした。低音が弱いのはマイクの性状的に仕方ないか、と思う。音量(増幅量)と音質はAirPods Proの擬似使用よりかは良いのでこれも納得できている。

私自身が一時期、カナル型イヤホンにハマっていたこともあり、イヤホンの装着については得意分野だったし、何ならウレタンスポンジ等各種イヤーチップも揃っているし…的な個人的な状況が幸いしたのかもしれない。集音器のことをさほど詳しく調べたわけではないのだが、よく耳にしたのは装着が面倒なことと、ベストポジじゃないとノイズやハウリングがうるさいということだった。ベストポジを見つけて直ぐに装着できるようになれば、とても便利なツールだと思う。

やはり、バッテリー保ちかなー。

2025-04-03

病牀での1 on 1

年明けから延期になっていた小野田あやささんの"1 on 1"(オンライントーク)が満を持して発売された。(👉 あやるーむ✿ )1月時点では私のコンディションもバッチリで参加する気満々だったのだが、諸事情で延期となり、4月と聞いた時点で参加しないつもりだった。つもりだったと言うか、コンディション的に難しいな、と。今日の午後にチケの発売が発表されたものの、特に焦って買うこともなく過ごしていたのだが、ヲタ友から連絡があっていろいろやり取りしたところ、とりあえず買えるうちに一枠だけでも買っておこうか、と思い立った。当日参加が難しい状況であれば、流してしまえばいいわけだし、やっぱり参加したかった!と後悔しても枠を買っていなければそれも叶わないわけで。

さて、1 on 1の参加にあたっての懸念点はいくつもあって、

  • 声を発せられない →トークが成立しない
  • 難聴が進行している →イヤフォンの利用で何とかなるかも
  • こちらの見た目が(病気故に)かなりよろしくない →この点が、1月時点では気にならない程度だったもののここ最近はかなり悪い。要は会話相手のあやさん自身が不快に感じてしまうのではないかという懸念がある。
  • 体力的なものがかなり落ちており、トーク回に参加できる体力があるのか、その時にならないと正直分からないこと。
  • 当日の時間帯が治療・処置のタイミングと被りそうで、その辺の調整ができるのかどうか。

等々、病牀からオンライントークに参加する上でクリアにしなければならないことが多い。

発声ができないことと、自分の難聴については、「トーク回」というイベントの根幹に関わる問題ではあるが、姿を見せることができるだけでも良いか、と思った。

問題は、私の見た目についてである。1月の時よりも良くなった点としては抗がん剤治療で失った髪の毛の量が大分元に戻ったことがある。が、それ以上に、患部が首から上(要は顔)にあって、患部を大きくガーゼで覆っている状態であり、また顔全体が常に浮腫んでいることが1 on 1の参加に消極的な理由であった。こんな姿を一推しに見せたくないなあ、というのが本音であるが、単なるええ格好しいなだけかもしれん。
以下の体力気力といったコンディションについては当日でないとどうにも分からず、ともかく権利を入手しておかなければ始まらないので、問題にはならないだろう。懸念としては残るが。

何はともあれ、1 on 1の権利は手に入れた!

2025-04-01

年度切り替え

今日から新年度だ。
ここ両日、仕事絡みの諸手続等、煩雑な作業が多かったが、こうして新年度を迎えることができて本当に良かった。前の主治医は「進行が早ければ来年の桜は見れないかも」とも言われていたので、こうして実際に桜の開花を見ることができて、世間的にも桜が開花している雰囲気で、桜の花を見てやったぜ! という気分である。こうした"区切り"みたいな象徴的事象を意識しすぎるのは良くないと思うが、ともかく新年度である。


4/1はiOSやmacOSのアップデートが来ていて、いよいよ日本語でもApple Intelligenceが使えるようになった。メールの要約などは試してみたが、面倒臭い作業が軽減されるのかこれから使っていってみたい。
個人的には、最近ホントにクソ多い迷惑というかフィッシングメールにマーク付けしてじゃんじゃか廃棄してくれる機能をアップルインテリで賢く自動化できないか、に超期待している。全く使っていないメールアドレスにiCloudの支払いがー、ビザがー、JCBがー、Amazonがー、東京ガスがー、とか言うホントワンパターンで頭の悪いフィッシングメールが一日に数十通という勢いで届く。メールソフトのフィルタリングに期待して一気に迷惑メールフォルダに放り込んでいるのだが、メールソフトの方は一向に学習する気は無いようだ。これがアップルのインテリで賢くなるのならば…と期待しているのだが、どうだろう?
これが、メインのアドレスだとメールサーバー側で結構良い感じで弾いてくれてユーザーのところまで配信されないようになっているので、もしかしたらメールソフトというよりもメールサーバーによるのかもしれない。

これ、自分でプログラム組んで学習型の迷惑メールフィルタを作った方が確実なのかな?

2025-03-29

病牀雑記(17)

 若い頃、アルバイトで雇っていた爺さんと二人で現場に出ていた時のこと。季節はちょうど今くらいだっただろうか。
「陽気が良くなってくると案外ポックリ逝く人が増えるんだ」などと爺さんが話してくれた。寒い冬は意外に耐えられるんだ、やっぱり冬を越してあったかくなって気が緩むのかねえ云々。

入院したまま夏から秋、そして冬を越した自分が言うのも何だが(笑)まあ、その爺さんが言ってたことも分かると言うか、何となくリアリティを噛みしめている。春と言えば再生のイメージもありますし。と言って、近々逝く実感を感じているわけではありませんが。

正直、全体としては悪化している傾向にあるように感じている。メンタル的には気丈さを保てているのでなかなか意識しづらいのだが、症状として、あるいは見た目的にも転院した頃よりかはあまりよろしくない方向に進んでるよなあ、と思う。そしてこうしたことを言葉にしてしまうのも正直怖いところがある。言霊ではないが、言葉にすることでよりそうした方向へ行ってしまうというか。それでも書ける時に書いておかないと、という気持ちも同時にあって、その辺の塩梅が難しいものだと日々考えている次第である。

実際に可能かどうかは別にして、いよいよという時はXあたりのSNSで言うつもりなのだが、ふと自分の周りを見渡してみるとリアルでの友人知人、親族はSNSをやっている人が少ないということに気付いた。実際はやっているのかもしれないが、私自身がそうであるようにSNSのアカウントを教えていない。また面会に来てくれた友人の中でも確実にSNS自体をやっていない人は数人いる。
今の自分のステータスを表示しておく場所、として考えるとSNSも便利だと思うんですけどね。逐一、朝起きた、朝飯食べた、通勤中だが寒い、電車が遅れていて遅刻しそう、目の前の人がウザい…等々事細かに報告するのも何だけど、ちょっとした一言を書くだけでも何となくその人がどんな状況なのかは伝わるものだと思う。逆に言うとリアルの友人に読まれて恥ずかしいようなことはSNSに書くべきではない、とも言える。確かに推しと個別握手していることをリアルタイムに知られるのはちょっと…と思うけど、今更隠す程でもあるまい。

斯様に、まとまった考えはblog等に書くのが適しているだろうし、「今どうしてる?」はSNSが良かろうと思う。ので生存報告的なものはXで表明していこうと思います。

2025-03-27

旧友との再会

今日は古い知り合いが面会に訪れて来て、話が大いに盛り上がった。

私は一度、若い頃にサラリーマンをやめているのだが、その時に勤めていた会社の同僚である。その会社も色々アレな話が満載だったので、話の尽きないこと。そのアレな話は今回のこととは逸れるので話題にはしないが、若い頃って思い出が濃いというか、毎日が詰まっていたよなあと改めて実感した。今と違って妥協もしなかったので、有り体な言い方だがとにかく若かった。仕事上の辛い局面をお互いに乗り切って来たという共通の思い出を今でもこうして共有できているのもとても不思議な感じだった。あるいは会社への恨み辛みも思い出に昇華できたということか。

そんな彼と久しぶりに会うことができたのも、自分の病が縁と思えば複雑な心境ではあるが、楽しい一時であった。

状況的にはあまり芳しくはないところもある今日この頃ですが、前向きに行きましょうや。

(今回は単なる日記なのでシェアはせず。)

2025-03-24

病牀雑記(16)

同じ病棟内で部屋の引っ越しがあった。
昨年の12月に転院してきた当初は差額ベッド料のかかる個室に案内され、差額無しの普通個室が空き次第そちらに移動、とのことで、2週間程で普通個室に引っ越しただろうか。基本的に入院日数の上限はないとのことだったので、このまま同じ部屋で行くのかと思いきや、ここ最近は入院希望者が増えてきており、私の時と同様に先ずは有料の個室に入院して、無料の普通個室が空くのを待つという流れは変わらないそうだ。しかし、無料個室がなかなか空かないので、無料個室に入院している期間が長い患者(且つ恐らくは引っ越しが可能な病状の患者)からもう一度有料個室に移り、再び無料個室が空くのを待ってもらうようにしている、とのこと。この場合も無料個室に移動しても、そこにいられる期間は2ヶ月程度が上限とのこと。もちろんその時の状況によるのだろうが、混み入ってくるとこのパターンを繰り返すようである。

言われてみれば、先月あたりまでは有料個室は空きが目立っていたが、このところはボツボツ埋まっているなあとは感じていた。陽気も良くなってくると入院患者も増える傾向にあるのだろうか。季節の変わり目だから? よく分かりませんが。

病人からすればいちいち引っ越すのも面倒でしかないが、有料個室の方が設備的にも部屋の面積にしても微妙に優れており、部屋自体は正直なところ思ったよりも悪くはない。当方、長期戦を見込んでいるので、差額ベッド料が発生するのは痛いが…。

早いところ退院できるのが一番、ですけどね。

2025-03-23

病牀雑記(15)

いよいよ春の到来を感じる今日この頃ですが、当方、相変わらず小康状態というか一進一退というか。痛みなどに苛まれることはないものの、順調に回復していると言える程のこともない状態である。ただ日々の食事(栄養)内容を考えると、体力が衰えていることは実感している。
仕事(リモートワーク)の方も一本納めたので一段落しているところ。例年ならば、有休とってドライブにでも出かけていたところですね。

良くなっていっている感覚と、良くない方向に向かっている感覚が同時にあって、何とも微妙な感覚である。しかし何かものを言えるうちに言っておくことは大事だと思うので、短いながら雑記をしたためておく次第である。

2025-03-18

いつ?

頃合いが難しい。
このことは診断された当初からずっと思い悩んでいたことでもあるが、病気のことをいつ公にするか。しかし復帰する気満々だった当初は敢えて公にする必要性を感じていなくて、そんな気持ちのままズルズルとここまで来てしまったと思う。

それから半年以上が経過して色々思うところもあり、先月辺りからここで色々書き、非公開アカウントのXの方でblog記事をシェアし始めていた。言うても、その非公開アカウントは仲の良い数十人程度のフォロワーだし、blogで書く前から病気のことを明かしていた人も多かったので、今更感は拭えなかったと思う。が、それでも自分なりに決心は必要でした。

容態が急変して意識も朦朧、というような状態では、そもそも状況報告をできるかどうか怪しいし、おそらく無理だろう。であればいっそ、広く公にすることはしない、という選択肢もありな気もする。私に限らず、人はいつ急死するか分からないし、来る己の死を常に告知できるとも限らない。だが、折角これだけSNSが浸透している世の中であるし、他の人達よりも己の寿命を身近に意識しながら生きている私としては、そのことを告知できる時に準備はしておきたい。要は告知のタイミングと自分の気持ちの問題である。

現状を言えば、良くなっているところもあるし、悪くなっているところもある、という何とも微妙な状態である。故に尚更悩みどころなわけですが、やはり意識がしっかりしているうちに告知しておきたいと思う。

このエントリーだけ読んでも何が何やら…な状態だと思いますので、ここ最近の過去記事を遡っていただければと思います。

当人は良くなる気満々なので、暖かい目で見守っていただければと思います。状況が状況だけに寛容性が低下していることもあり、SNS等でもつい感情的な言説を吐くこともあろうかと思いますが、そこは一つ、死に損ないが何か言ってらあ程度に流していただければ幸いです。

2025-03-12

病牀雑記(14)

先月からメンタル・フィジカル両面で低調な状態だったのだが、ここに来て上向きな状態である。特にフィジカルな面において、痛みを感じる頻度が減ったり、感じる痛みも以前よりは少し軽くなったようだ。まあ、これがいつまで続くのか分からないけど。フィジカル面が調子良いとメンタル面でも具合が良くなるもので、病は気からなのか、気は病からなのか良く分からなくなる。要はどちらもと言うか、両面は密接に関係していると言うことでしょう。ちなみに痛み止めの薬の量は変わっていません。

調子が良いとは言っても、基礎体力自体は落ちたままだし、平日昼間のリモートワークもできればサボりたい。調子が良いからこそあれやこれやをやりたくなり、それこそ仕事してる場合じゃねえよなあ、となる。しかし、毎日のルーティンとして仕事することを課しているのは社会復帰した時のことを考えてである。実際問題、仕事をしない代わりに毎日何かをやれる程ではないし、ダラダラ動画を見続けたりSNSを見たりするのが関の山だろう。

調子が上向きと言うことは、一度は決断したクルマの売却も迷うことになる。クルマ以外にも、クレジットカードの整理やハロプロ/MLineのFCをどうするかの問題も悩みの種だ。が、解約するものは解約して、社会復帰した時はまた新たに入り直すのが良かろうと思う。

  • TOHOシネマズのセゾンカードは解約済み。
  • ANAのSFCは望んでももう手に入らないだろうからもったいないが、年会費との兼ね合いも考えて解約の方向で。
  • VIEWカードも悩みどころ。社会復帰した際はまたSuicaを使うだろうし。
  • ハロプロゴールドは…。一応は以前のメインカード、今のサブだし、まあ残すか。
  • Hello! Project FCは先月更新されたばかりだからとりあえずは継続で。MLineは…流石にやめるかなあ。

クルマの売却も含めて、調子がLOWな時に思いついたのだが、調子がイマイチだったからこそ手続を進めるのが億劫だった。それが上調子になるとヤル気はでるものの、解約の必要性に疑問を感じてしまうという、何とも奇妙な状態に陥ってしまった。

いずれにしても、後悔の無いよういろいろ考えることにしましょう。

2025-03-10

HONDA党宣言

共産党宣言のパクリではない。

入院中の今もクルマを保有したままで、兄に管理を任せている状態である。売却するのなら早目にするのが良かったのだが、買ってから未だ一年程しか経っていなかったこともあり、なかなか踏ん切れなかったのだ。入院した当初は数ヶ月で退院できそうな見通しでもあったし。また兄は兄で自分のクルマを持っているので、バッテリー等が上がらない程度に私の車も時々乗ってもらうようにしていた。都内の病院から転院した際も、私のクルマを出してもらったことは病牀雑記の方で書いた通りである。転院した後も週一程度で自宅へ一時帰宅する際は兄に私のクルマを出してもらっていた。私の体調が良かった時は少しではあるが、私自ら運転をしてみたりもした。

しかしこの状況でローンを払い続けるのもどうよ? 的なところもあって、ぼちぼち売却するタイミングかなあ、と。税金や任意保険の更新時期でもあるし。クルマというのは本体以外にも諸々付随する出費も多いことを実感する。

と言うわけで一旦は売却する方向で決断し、ディーラーにも話をしに行ったのが今日のこと。それでこのクルマに乗るのも最後になるかとも思ったので、兄に頼んでまっすぐ帰らずに少し辺りを回ってもらうことにした。

楽しい。自分で運転せずに助手席に座っていただけだが、やはり乗っていて楽しいクルマである。それには兄の運転が上手いということも大きい。

18歳の時に原付の免許を取り、半年後に中型自二、更に遅れて四輪の免許を取ったが、最初に乗ったスクーターから四輪自動車までずっとホンダの乗り物に乗り続けてきた。そして、二輪にせよ四輪にせよ、運転の見本だったのはずっと兄だったのである。兄弟で色違いのNSRに乗っていたこともあったし、私がCR-X del sol、兄がCIVIC(共にSiR)なんてこともありました。兄のバイクの後ろに乗せてもらったことも、助手席に乗せてもらって峠を攻めてもらったことも良き思い出です。自分がHONDA党なのも確実に兄の影響だろう。

ここ最近で、兄が運転するクルマ(マニュアル車)に乗る機会が俄然増えたわけだが、こうして時を経ても、「この人にはやっぱり勝てないなあ」ということを実感させられる。普段乗っている自分のクルマはCVTのオートマチックなのに、ギアの操作の上手いこと。勿論、シフト操作だけではなく、運転操作全般での話である。

辺りを走ってみて、売却する決断をしたものの、やはり手放すには惜しいクルマだ。現実も考えてもう少しだけ考えてみることにする。兄にしても自分のクルマから私のクルマに乗り換えるのもアリか、と考えたこともあったそうで。

「これがCIVICのType Rとかだったら迷わず売ってたんだけどな」(Type Rだったら高出力過ぎて今の自分の手に余り、即事故りそうだから)とはその兄の言葉。

はてさて、どうなることやら。

2025-03-08

病牀雑記(13)

失われたもの

ここいらでナンバリングと時系列を戻す。以降はリアルタイムでの雑記を目指し、過去の振り返りがあってもそれはあくまでも「今、過去を振り返っている」と言うことで。
今回は感覚にまつわる話。

オピオイドとアセトアミノフェンの二本立てで過ごすようになり、とりあえずはその状態が持続している。突発的な痛みが来ることもあるが、10〜20分程度安静にしていれば落ち着く。カロナールを投与して効き始めるまでも同程度の時間はかかるので、何とかこなせている。なのであまり変わりは無いと言えば変わりないのだが、できるだけ安静でいたいが為に活動量が落ちていることは自覚している。

今までも書いてきたが、カニュレを入れていることから呼気・吸気ともに、基本的には声帯から上部、つまり口から鼻を通ることは無い。その為に嗅覚が失われた。鼻詰まりで常にティッシュペーパーで鼻に栓をしている状態に近いだろうか。
それに加えて味覚も大分失われている。臭いが分からないのと、今は治まってきているが放射線治療の影響で口内〜舌がピリピリするような感覚である。
そして感覚とは違うが、飲食物を口から飲み込みにくいと言うこと。よって食事は鼻から食道に通した管を通して、流動性の栄養を摂取している状態である。
これらが転院前から失ったものであった。

そして年明け前後か、カロナールを投与し始めた頃からか、耳が詰まる感じがし始めた。耳がボワボワして音が聞こえにくい感覚。頭を傾けると内耳の奥の方で液体が動く感じがしたり、頭の向きで耳の閉塞感や聞こえが変わる感じがあった。

加齢の影響もあってか、あるいは元々から聴覚はあまり良くなかった。声が小さい人や、マスクをしていて発音を明瞭に聞き取り難い時などは日常会話でも難儀することも多かった。特にヒソヒソ声で大っぴらに話せないことを話される時は、実はあまりちゃんと聞き取れていなかったという。何度も聞き直すのが憚れる内容の時などは何となくの概要だけで、肝心のことは聞き取れていなかったりしたものである。

そうした状況に加えて聞こえが悪くなった。時間の経過と共に聞こえは悪くなっていくのを感じ、痛みが徐々に増えていくのとシンクロしているようにも思えた。元々良くは無かったとは言え、聴覚までとは…。
これは人とコミュニケーションを取る上で大きなストレスとなったし、日常生活でもかなりの不自由だ。例えばPCやスマホで動画を鑑賞するにしても、折角の個室ということを活かして、イヤホンやヘッドホンを使わずに内臓のスピーカーで音を出したいところだが、やはり聞こえが悪い。イヤホン/ヘッドホンを使った方が音は聞きやすい。

こうして少しずつ何かを削られ失われていく感覚もなかなかにしんどいものがありますね。

以下雑談。

ブログの更新をXの鍵垢の方で共有するようにしていたが、病気の経過を時系列で追うのは前回で大体終えたし、今後はその時々の思いやあれこれを書き連ねることになりそうなので、Xでの共有も以降は気分次第かな。

病牀雑記以外のこともなるべく書いていこうと思う。またXでの共有も鍵垢以外に表のアカウントでもして行こうか。鍵垢で共有したところで、このブログ自体は閲覧を許可された人以外に読めないわけではないし、ただ人目に留まりにくいというだけの話。

表アカでもブログ更新の共有をすれば、病気のこと、病牀雑記が目に留まることもあるだろう。病気のことを隠すつもりはないけど、公開するタイミングを逸した感が強く、どうしたものかと悩んでいたところではある。またその時の気分次第でどうなるか分からないが、いずれにしても暖かい目で見守っていただければと思います。

2025-03-07

病牀雑記(12) 9.6

引っ越し。新橋から千葉県へ

12月の或る日、午前中。約5ヶ月ぶりに我が愛車・HONDA N-ONE RS 6MTを病院の地下駐車場で対面した。勿論、運転するのは兄であるが、この日の転院の為に兄はわざわざ私の愛車を出してくれたのだ。普段兄が乗っている車はオートマチック車だと言うのに、それも平日の都内まで自分の車ではなく私の車を出してくれたのは感激であった。

数ヶ月ぶりの、娑婆の空気。入院した頃とはうって変わってすっかり冬の様相を示している。しかし車内にいる限りは寒さも感じない。都内から自宅へ、結局下道で二時間弱のドライブとなった。この頃は数時間おきに溜まった痰を除去してやらないといけなかったのだが、移動中は心配するようなことも無く、無事に我が家へ到着する。
さほど時間に余裕があるわけでは無いので、服装等季節ものの交換、無くて不便していたものをピックアップしたり逆に不要となったものを置いたりなどの雑用をこなす。入院直前の状況を目の当たりにしてとても懐かしい。用事を済ませると転院先の病院へ移動する。

転院の手続や検査などを済ませると早速病室に入る。緩和ケア病棟と言うことで、基本全室個室なのだが、生憎空きがなかったので、差額料金が必要な特別個室に一先ずは入室することになった。差額料金と言っても、都内の病院とは比較にならない程安価ではあるが。(その後、二週間もしないで普通の個室に移動できた。)

個室の快適さ、緩和ケアの意味

長らくカーテン一枚で仕切られた4人部屋から、いきなり個室へと移動してとても快適であった。TVやYouTubeを見るにしてもイヤホン・ヘッドホンがいらないし、トイレや洗面所が自分専用であることも心強かった。今では無くなったが、利尿剤を入れている時にトイレに立っても先客がいた時の絶望感を味わわずに済むのである。今でこそ告白するが、前の大部屋の時はいろいろ間に合わずに下着を汚したことも数度ありました(涙)。

ここまでの移動をアシストしてくれた兄も帰ると個室に一人。カーテンで区切られた大部屋でも、そのカーテンの中では一人であるが、その実感は全く異なる。またこれならリモートワークも前よりも集中してできそう。そして何よりも、楽天モバイルの電波が4Gではあるが途切れずに安定して入る! 勿論メイン回線のソフトバンクモバイルも5Gで安定している。これは捗りますね(何が?笑)
そのお陰でサブ(楽天)のサブ回線だったmineoも解約しました。行く行くは楽天もやめてPixel 8aも人に譲るなりするかなあ。

個室が快適な分、持ち込むものも増えたり、通販も普通に使ったりして悠々自適な日々を行っていました。こうして普通の病棟よりも緩く快適なのは、やはりここが緩和ケア病棟だからだろう。

ある日、郵便物を投函しに病院内のポストへ行った帰りに、エレベーターから下りてきたのは御遺体と御遺族の方々であった。私が転院してきてさほど時間を待たずに普通個室へ移動できたのも、病室に空きができたからである。それが必ずしも死によるものとは限らないし、一月以上この病棟に入院していても患者さんが亡くなられるところを知ることは無かった。それでもこの時の光景は、自分が今いる環境を強く自覚することとなった。

自分では、食事とカニュレのことがあるから緩和ケア病棟に入院しているのだと言い聞かせ、周囲にも言っていたが、それだけでは無い、重い現実から目を反らしていたのだ。

話が前後するが、転院してから己の誕生日、そして新年を迎えた頃は、治療が終了した頃と同等かそれ以上に上調子だったと思う。また週に一回程度の頻度で自宅へ一時帰宅することも叶った。
治療を担当した主治医の元を離れることには当初抵抗もあったし、前の病院の方が安心なところもあったが、体調が落ち着いていたこともあって、やがてそのような不安は払拭されていった。

2025-03-05

病牀雑記(11) 9.5

最近、病状に変化があったこともあって余裕を失っていたこともあり、入院後の経過を飛ばしてしまった感。本来であれば放射線治療のことを書こうと思っていました。が、結構前の話になるし、何か書き留める程のネタがあるかと言われるとあまり思い浮かばないので、何となく覚えていることだけを記録しておく。時系列的には雑記(9)の後になるので、9.5とナンバリングしました。物理的には(11)、論理的には9.5と言うことで。

放射線治療

抗がん剤と並行して放射線治療が始まった。基本的に平日毎日(土日祝は休み)実施で9月下旬から11月上旬まで続いた。照射する部位が喉〜顎〜口の辺りになるため、副作用も口内の炎症も予想されていた。照射を開始して一週間程は見た目にも特に副作用はなし、二週目くらいから首筋が日焼けしたかな程度に赤らんできた。口内の違和感は開始前からあまり変わらなかったと思う。元々唾液の分泌が過剰気味だったが、増えも減りもしなかったように思う。口内炎的な炎症と言うか、舌が痺れる感覚は出てきた。その後は舌が痺れたり若干の炎症が口内にみられ、首筋の皮膚が変色してかさぶたになったりしていたと記憶している。

その間も痛みに苦しむようなことはなかったのだが、密かに処方されていた痛み止めの薬効で痛みを感じていなかっただけなのかもしれない。気持ち的には、放射線よりも抗がん剤による副作用の方がきつかったと思う。今思えば、基礎体力は増えていないのに、生食静注で身体全体が水膨れ、体重が6kg近く増えた状態はかなりしんどかった。歩いたりするだけでも水分で体重が重くなっている身体は結構しんどいものがある。それを考えると放射線の副作用はあまり気にならないレベルだったかと思う。

髪の毛がひどく抜けるようなことは無くなっていったが(むしろ最悪の時よりも髪の濃さが戻ってきたと思う。)、放射線が直接照射される髭は全く無くなってお肌トゥルトゥルになりました(笑)。病院からはずっと皮膚の塗り薬を処方されていたが、あまり熱心に塗っていなかったと思う。あと口内の炎症を抑えるようなうがい薬も同様に殆ど使わず終いだった。今でも少し舌の痺れなどが残っているが、うがいをサボったからかどうかは分からない。

治療の終了

二回の抗がん剤治療と放射線治療は11月の上旬で終了した。あと1回分だけ投薬が残っていたが、身体への負担を考慮して放射線治療と同時に投薬も中止となり、所謂がんをなくしていく積極的な治療は終了した。以降は、治療の効果が現れるのを期待して待ちつつ、身体のケアをする時期となる。副作用は残っていたが、それも徐々に良くなって行くのを実感できたし、少しずつではあるが(また主観的ではあるが)腫瘍も小さくなっていっているようだった。

フィジカル、メンタル共に一番静穏な時期だったように思う。定期的な検診や検査の他はあまりすることもないので、インターネットの通信量もピークだったのではあるまいか。仕事の方も、会社からは休職を言い渡されたので必要以上に仕事に関わることはしなかったし、ひたすらインターネットで動画やら何やらを見て過ごしていたと思う。ひたすらコンテンツ消費に励んでいました。

病院とは今後の方針を相談するようになった。今の医学においてできることは全てやった状態、言葉を変えればこれ以上やれることはない、と言うことを説明された。勿論、標準治療以外の手段が無いことはないが、費用と実際の効果を考えればあまり現実的ではない。1分1秒何が何でも延命しなければならないような状況でない限り、人事は尽くしたと言うことだ。そうした状態で、今この病院に居続けるよりも地元に近い病院で緩和ケア病棟へ入院することを勧められた。あくまでもここは積極的な治療を行う場であり、今はもうその役割を終えている。勿論患者である私自身が望むのであれば入院を継続することも可能だが、費用的な面からもあまり勧められないとのことだった。

緩和ケアの段階へ

本来であれば、退院して自宅での療養とするのが望ましい。しかし私の場合、口からの食事ができない、カニュレを入れているために定期的なメンテナンスが必要であることから自宅での療養は実質上無理である。結局、生命維持の為にはそれなりの医療機関にお世話になるしかないのだ。ある程度の食事が可能になるよう、口内の状態が良くなればいいのだが、食事が可能な状態になるにしても結構時間がかかるであろうとの判断だった。個人的には、喋れるようになることと口から食事ができるようになることを目標にしていたのだが、入院当初から抱いてきたその目標は挫けることとなった。腫瘍が小さくなって、食事や呼吸を阻害している原因がなくなれば…と思っていたことがほぼ困難と自覚させられたことで、一つの気持ちの区切りになったと思う。

一つの覚悟。

これは今後の社会復帰等の見通しを考える上で重要な区切りとなった。入院した当初はいつからアイドル現場に復帰できるか? を常に考えていたので、アイドル本人に今の病状などを言うつもりは無かったし、次に会える現場のことをあれこれ思い描いて行動していた。しかしこの覚悟を持った時点で、アイドル現場への復帰は諦めた。外に対してそうは言わなかったし、可能性ゼロとして完全に諦めたわけでは無かったが、まあ余程のことが無い限り復帰はないだろうなあ、と思っていた。その余程のことに今でも希望を抱いてはいるけども。

治療が終了してから、親族の協力で転院先の緩和ケア病棟がある施設を探し始めた。複数の病院をあたってもらって、なかなかの好条件な病院に転院することが決まった。その病院は私の自宅からも、親族の家からも程近い立地にあり、外出や面会などの条件もかなり患者に寄り添うものであった。一時帰宅や外出が可能なこと、親族であれば24時間、更に宿泊しての見舞いも可能であること、等々。
後は転院の日程などを詰めるだけとなり、約5ヶ月に及ぶ都内の大学病院での入院生活を終えて地元へと戻ることとなった。

入院した当初は「根治を目指して」との言葉に勇気づけられたが、こうなってしまったのは無念である。だが人事を尽くしてもらえたことはこの身を以て実感していることなので、医師や看護師、スタッフの皆さんには感謝しかない。

2025-02-23

病牀雑記(10)

 感覚的には小康状態が続いているのだが、ここ最近は痛みを感じるようになってきた。いよいよアレが近付いてきているのか。一応それなりの覚悟は常に持っているつもりだが、その覚悟も現実味をより一層帯び始めてきたと言うことか。

このblogにて入院前からの病状や治療中のことを書き連ねていこうかと思っていたが、それも過去のことだし、そんなことも言っていられなくなってきたのかもしれない。

痛みというものは、恐ろしく人を消耗させる。肉体的にも精神的にもゴリゴリ削られて行く感覚。当初はアセトアミノフェンで抑えられていたものが、薬効の切れ目が近付くと痛みを感じるようになる。特に夕食後から翌朝にかけてが時間が空くために、深夜〜明け方にかけて痛みで目が醒めるということが続いた。そこで夕食後、就寝前に投与してもらうようにしたが、それでも明け方の時間帯がどうも具合が良くない。また昼間の時間でも6時間は持たない感じがしてきた。

そこで愈々、オピオイドが処方されるようになる。あまり日を待たずに量が少し増えたところはあるけど、効果は上々だ。ほぼ一日効果が持続するから、途中で目覚めるなどということはほぼ無くなった。だが温度や血流の変化など、刺激がきっかけで一時的に痛みが来ることもあり、その時は何も手に着かない状態に陥り、消耗する。

また痛み止め薬無しには普通に生活を送ることが難しいので、状況は良くない方向に一歩近付いたということだろう。また痛みがくるのを避けるために、普段の活動量・運動量も減少したように思う。

人はこうして消耗していくのか。

2025-02-09

病牀雑記(9)

こう言った日記は間を空けると、筆者の身に何かあったか? と思われてしまう可能性があるので、間を空けるのは良くないな。しかし書くこと自体を忘れがちな上、書く内容もあまり思いつかなかったことから更新が止まっていたのであって、更新できない程容態が悪化したわけではないことを始めにお断りしておく。

抗がん剤治療・気道切開

1クール目の抗がん剤治療が始まった。…のだが、これを書いている今よりも半年近く前のことになる。流石に詳細はあまり覚えていない。確か3種類の抗がん剤を投与していたと思う。これを週一で4週(回)繰り返す。この時は副作用が目立ち、皮膚と頭髪へのダメージが大きかったし、見た目的にも目立っていた。あと今にして思えば、下痢気味だったのも薬の副作用だった気がする。下痢以外の、皮膚や頭髪への副作用については、痛みや苦しみは特になかったので、何となく普通に過ごせていたと思う。

覚悟はしていたけど、シャワーを浴びて頭をタオルで拭いたり、手櫛で髪の毛を梳かしたりする度に結構な量の毛髪が抜けるのには閉口した。換毛期の動物かという勢いで髪の毛が抜けていったのにはショックでした。

抗がん剤とは別に、腫瘍への治療と言うよりかは、腫瘍が気管の入口のところを圧迫している関係で呼吸を邪魔している状態だったので、人工気道(カニュレ)を入れる手術を行った。声帯よりも下の部分で空気が出入りするため、声が出せなくなった。元々、口内にできた腫瘍のせいで舌が回りにくい状態ではあったが、物理的に発声をできなくなった。
入れているカニュレの種類で声を出せるタイプ(呼気は声帯を通じて口へ、吸気は喉の開口部から)もあり、手術後一週間半程してからは声を出せるタイプになったが、しばらくしてからまた声が出せないタイプに戻ってしまった。声が出せないのは本当に不便で、先ず電話ができない。何かの時には電話で対応しなければならないことがある(例えばクレジットカードが不正利用された場合にカード会社から確認の電話がかかってくるとか)が、それに対応出来ないのには焦りを覚えた。たまたまそうした機会はなかったが、対面であれば筆談で意思疎通をすることができるが、電話ではそうもいかない。喋れないことを伝えることすらできないのだ。とりあえずの対策として、スマートフォンの文字読み上げ機能を準備しておくことにした。「私はしゃべることができません」のような文章を用意しておいて、いざという時はそれをスマートフォンに読み上げてもらおうという寸法だ。

いずれにしても、腫瘍が口内の食道と気道の入口を圧迫している関係でカニュレを入れていることと、飲食物を口からのみ込めないため栄養物は鼻から食道へ挿入されたチューブで流し込むこととなり、それは今でも続いている。そしてそれ故、退院して自宅で療養することができないでいる。呼吸と飲食という生命維持に必要なことが、医療機関の手助けが必須であるということはどうしても不便に感じてしまう。

それはさておき、抗がん剤の2クール目はシスプラチンの投与となった。シスプラチンの方が抜け毛など目立った副作用はなかったのだが、薬成分を腎臓内に溜めることなく体外に排出するために、生理食塩水と利尿剤を大量に点滴で静注されることになる。当然尿も多く出るものの、静脈内に生食を入れるものだから、身体の浮腫みが酷い。体重も増えるし、自分でも身体が鈍重になっているのを感じる。要はダルい。数日で水分は抜ける感じだが、抜けたと思うと次のサイクルが始まってその繰り返し。今思えばそこそこ身体に負担がかかっていたと思う。血液検査の結果も芳しくなく、一時期は輸血を行ったりもしたし。

入院後から続く点滴のお陰で、秋以降は点滴の針を設置する箇所を探すのに難儀したのもある。点滴の他にも週に2回の血液検査の採血、その度に看護師では採血できずに医師の手を借りなければならなかったりと、そう言った苦労もありました。点滴も気圧の差だけでは血管内に液が入っていきにくかったりとか。

抗がん剤の2クール目に平行して行われたのが放射線治療でした。放射線治療についても書くネタがそんなにあるわけではないけど、また改めて。

2025-01-26

病牀雑記(8)

 入院まで

中咽頭ガンと診断されて、以後の予定としては、7月末に入院して外科手術、その後は抗がん剤による治療と聞いていた。7月の間はまだいろいろできるかなと思っていたが、自分でも想像以上に口内の腫瘍が肥大化していった。痛み止めの錠剤が処方されたのだが、そもそも錠剤をそのまま嚥下することすら難しくなってきた。最初のうちは錠剤を二つに割ったり、口の中で噛み砕いて小さくして飲み込むようにしていた。また食事も少量を口に入れて良く噛んでさらに少しずつ飲み込まなければならなくなった。必然、食べる量自体が減る。ゼリー飲料や栄養ドリンクなどが増えていくが、体力が落ちていくのを実感する。
その後も様々な検査があって通院していたが、血液検査の結果免疫力が極端に低下しており、食事量が少ないこともあって、このままでは到底手術に耐えられないと判断され、急遽予定を早めて翌日から入院することになる。とりあえずは点滴や栄養の経管摂取により体力の回復を目指す。

小学生の時に一週間程入院したことはあるが、この年になって実質的には初めての入院生活である。とりあえず2ヶ月間くらいの入院を想定した準備をして、翌日病院へ向かった。

初めての入院生活

スマートフォンにiPad、仕事用のPC、Wi-Fiカード。とりあえずは何とかなりそうだ。日常品はその都度売店で調達すれば良いだろう。院内にはチェーン店のコンビニエンスストアが入っているし、福祉・医療用品を売る店もある。
前日に入院が決まったため、準備も何もなかったが、今改めて振り返っても不足したものは殆どなかったと思う。そして入院して最初の数日間はコロナ等感染症に罹っていないか、確認の隔離のため(差額ベッド料がクソ高い)個室へ半強制的に入れられたのだが、それはそれで良かったと思う。病院での生活ペースに慣れるためにも、最初は個室でのんびりできたことは良かった。そして数日後、四人部屋へと移動した。

四人部屋といっても、基本は病人同士の集まりなので、秩序を乱すような非常識な同室者はいなかったし、カーテン一枚で区切られているので発生する「音」が気になるかと思ったが、おそらくは各々の病気に由来すると思われる音が稀にあるくらいで、特に気にならなかったのは幸いであった。

21時消灯、翌朝6時に点灯、起床。普段は0時過ぎに寝る生活をしていたので、21時消灯はきつかった。ベッドの中でスマホをいじったりして21時に寝ることはなかったのだが、薄暗い中ではどうしてもウトウトしがちである。そして普段よりも早い就寝は変な時間に目を覚ます。今思えば、だが、やはり気管が圧迫されて息苦しかったり唾液が溢れたりでなかなか寝付くことができなかった。浅い、眠りと呼ぶには浅すぎる眠りの中で、夢とも幻覚ともつかない何かを見聞きすることもあった。入院したての頃は、先ずは体力と免疫力の確保が先決だったので、腫瘍に対して積極的な治療を行っていたわけではない。病変はそのままで、痛みや苦しみと言った自覚症状はなかったものの、生活の質は大分低かったように感じる。

あまり明確には覚えていないのだが、この頃には外科手術よりも前に抗がん剤での治療を先行して様子を見るようになっていたと思う。その後に外科手術を行い、放射線治療と抗がん剤を続けることになるようだ。またその時点で8月の退院は無いな、と思った。早くても9月末か。

SNSでは知人たちが外界の夏の暑さを嘆いていたが、私は暑苦しさを知らぬまま8月を迎えようとしていた。

2025-01-19

病牀雑記(7)

 ここからは病気のことを書いていこうと思う。

端緒

今思えば、になるが、自覚症状を感じ始めたのは2024年のゴールデンウィーク明けくらいからだったと思う。GWの前半は発熱で寝こんでおり、特に医者には行かなかったが、発熱と喉の痛みから何らかの感染症だったんだと思う。GWに入る前に某地下アイドルのライブに行き、病み上がり(注:所謂病んでいる方の病み上がりではなく、身体の病気における病み上がりです。)のオタクとMIXを打っていて、ちょっとヤバいかも…とは感じていた。多分だけどその時に感染した気がする。
それでもその時は、一推しである小野田あやささんがMerci Merciを卒業したばかりで、やり切った感とか燃え尽きた感があったのであまり気にしていなかった。で、数日おいて連休に入ると見事に発熱して家で寝こんでいた。連休の中日には出勤できるくらいには回復していたのでその時はあまり気にしてはいなかったのだが、喉に違和感、そしてリンパ節が少し腫れている感じもあったことは覚えている。そして喉の違和感は口内の違和感へ変わっていく。舌の付け根に違和感というか異物感を感じるようになっていく。それを意識するようになったのが5月の半ば過ぎから後半だっただろうか。

舌根におできのようなものができていて、最初のうちは異物感だけで済んでいたのが、日が経つにつれてそのおできは大きくなり日常生活にも影響し始めた。最初は舌がもつれるような感じで、言葉を発音するのに支障が出始める。呂律が回りにくい状態か。そしてそれが徐々に悪化している自覚もあった。しかしJuice=Juiceの植村あかりさんの卒業コンサートはどうしても外せなかったので、6月の半ばまではそのまま何とかやり過ごしていた。やがて、呂律が回らない状態に加えて、唾液が溢れやすくなってきた。特に寝ている間に唾液というかよだれが溢れていることが増えたし、その不快感のせいで夜も途中で目が醒めたりして睡眠不足気味にもなっていた。
そして何よりも不具合を感じるようになったことは、口の中のおできが大きくなってきていて、物を食べる時に以前と同じ量を口に入れることができなくなり、食べる速度が遅くなってきたこと、またそれ故に食べている途中で食欲がなくなってしまい、食事を残すようになってきたことである。発話と食事の不具合が進行してきて、愈々日常生活に支障をきたし始める。

うえむー(植村あかり)の卒コンを終え、仕事の方も何とか一段落付けた6月の末、ついに職場近くのクリニックを訪れた。ここまで来るともう、通院しながらの治療で済むとは考えられなかったので、入院を覚悟してのことだった。(そのためもし入院することがあっても問題が最小限で済むこのタイミングを待った。)

初診

その日は出社して1時間程度で残務を終わらせて、職場近くのクリニックへ行き診察を受けた。するとドクターから、「紹介状を書くから、今からこの足で紹介先の病院へ行き、検査してもらうように。仕事は、今日はもう休みなさい」と、TVドラマで見たことがあるようなことを言われた。この足でこのまま向かえと言われたものの、一度職場に寄って簡単に事情を説明してから紹介先の病院へと向かった。この日は梅雨時で雨が降っていて、雨の中幾分興奮気味に歩いて行ったのを覚えている。

紹介された病院に着き、紹介状を添付して受付を済ませたが、午前中の診察は終わっていたので、午後からの診察を待つことになった。やはり気分は高揚していたので、昼食も摂らずに(この頃はすっかり食べる量も減っていたが)辺りで時間を潰して、指定された時間に病院へ戻ってきた。

先ずは診察、そして検査、検査。この日だけでは検査が間に合わず、後日CTやらMRIやらをいろいろ受ける羽目になり、診断結果は一週間後ということになった。この時点でのドクターの所見は、中咽頭ガンの疑いとのことであった。

自分で勝手に舌ガンかもなあ、等と思っていたが、舌根部以外にもリンパ節も腫れていて、舌の部分以外にリンパ節も生検検査をされたので、そういうことなんだろうと思った。そして現時点では、「ガンの疑い」とのことだが、おそらくは、多分、自分はガンなんだろうな、と確信していた。
くよくよしていても仕方がない。ともかく検査を複数受けなければいけないし、いよいよ仕事したりアイドル現場に遊びに行ったりしてる場合じゃなくなるな、などと覚悟をしたりもした。

匂わせ

診断結果が分かる前にライブ現場が入っていて、そこで自分の推したちに病気のことを明かすべきかどうか非常に悩んだ。

元来、いや今でもだが、ライブやイベント、ステージでの活動を生業としているアーティストに対して、その現場に行けないことを言い訳することは禁じ手である、と言うのが私のポリシーである。行けないことは黙っていれば良い。行けないことの言い訳を聞かされるアーティストはどんな気持ちか。行けない言い訳など、醜い自己弁護に過ぎないではないか。

この時のように、どうしようもない事情で現場に行けなくなるのならば、いっそそのまま相手のアーティストの記憶から忘れ去られた方が幸せではないか。下手に同情されるよりも、スッといなくなる方が気が楽だ。

しかし、Merci Merciと、一推しの小野田あやささんについては、現場の特典会でそれとなく事情を明かすことにした。特にあやさんの舞台については既にチケットも取ってあり、そのことをあやさん本人も知っていたし、今まであやさんを一推しとして推してきた実績が自分のポリシーを曲げた。

この頃は明瞭に発話することが難しかったので、スマートフォンに予め言いたかったことを打っておき、その画面を見せながらのお話し会となった。たださすがに病名(疑い)までは明かさずに、喉の方に不調があって言葉が喋れないこと、手術や入院しての治療が必要になりそうなこと、もしかしたらちょっと時間がかかるかもしれないこと、などを伝えた。

自己弁護、言い訳に過ぎないことは分かっていたが、いきなり現場からいなくなることによって与える心配の方をなくしておきたかったのだ。

診断結果

初診から一週間後、親族である兄と一緒に診断結果を聞きに行った。

やはり、中咽頭ガンであった。ステージ4。

生検検査でも悪性の腫瘍がみられた。但し不幸中の幸いか、食道や肺など他の部位への転移はなかった。

2025-01-15

病牀雑記(6)

 経緯

いきなり(6)からかよ!と言う話ですが、実は前からnoteの方で書き綴っていてたところ、色々心境の変化がありbloggerも復活させようかな、と。そしてタイトルにもある通り「病牀雑記」である。確か芥川龍之介のエッセーにそんなタイトルがあって、まさに自分の入院中に電子書籍で芥川のエッセーを読み、何となく同タイトルでnoteの方にポツポツと記事を書いておりました。そこではタイトルこそ病牀雑記を銘打っていたものの、病気とはあまり関係のない、通信環境などの話題が主でしたが。

私が入院したのは昨年(2024年)の七月。その後転院を経たものの、年が明けた今も入院中である。入院した当初は秋口には退院できているつもりだったが、思っていたよりも治療の効果が認められず、今に至る次第である。半年近くにも及ぶ入院生活、そしてすぐに退院できるとは言えない状況で、病気のことや自分の生に与えている影響、あるいは生への向き合い方と言った事柄についても何か書き記したいとの思いが強くなった。そこで改めて、自分にとってBlogの原点でもあるbloggerで書いていこうと思い立った。

思えばこのbloggerを始めたのは2006年で今から二十年近く前のことだ。(最初のエントリー:夏焼トンネル)ここ最近と言うか、この十年くらいは殆どblogを書いておらず密度で言ったら二十年分の半分以下の薄さだと思うが、ともかく二十年前というのは自分でも驚きだ。それこそHello! Projectのオタクになりたての頃だし、そもそもがハロヲタ話を書きたくて始めたbloggerであった。それが今や、ハロプロのファンクラブ(ハロプロ及びM-Line)には辛うじて入っているものの、一推しはハロプロはおろかUp-front所属ですらない小野田あやさである。細かいことを言うと、彼女はスペースクラフトに所属する前は演劇女子部の演劇に出演しており、『恋するハローキティ』(Juice=Juice版)で見かけたのが最初のきっかけだったので、Up-frontと全くの無関係とは言い難いところはありますが。ともかく、ハロヲタ話を書きたくて始めたこのbloggerだが、アイドルとは関係のない内容の記事も色々と書いており、純粋にハロヲタブログであるとは言い難いだろう。要は、私の個人的な日記だった言うことなんだと思う。そして原点でもある。

2010年代になって記事を書かなくなったのはやはりTwitterが原因だろう。ここに限らずmixiの日記なども殆ど書かなくなった。百数十文字という制限はあるが、リアルタイムに心の中を吐き出していると大方表現欲は満たされるものだ。その表現内容の良し悪しは置いておいて。

そして去年の7月、いよいよ入院となりました。と言っても院内で日常生活を送る分には支障は無く、時間を持て余すことになる。スマートフォン、iPad、ノートPC(仕事用)等々、電子デバイスは持ち込んでいたので、持て余す時間の過ごし方は最初のうちはコンテンツの消費に走る。動画もよく見たけど、相部屋なのでイヤホン必須だし目も疲れるしなので、電子書籍で文字コンテンツをよく読んだりもしました。インプットばかりの毎日が続くと自然にアウトプット欲も湧いてくるものだが…病気のことを具体的に書くのも気が引けていたと言うか、そこまでの覚悟は持てていなくて、何となく当たり障りのない、ガジェットや通信環境の話などをnoteに書き連ねておりました。

だが入院生活も半年を越えて、退院の目処も立たない今、やはり病気にまつわる事柄について語らないわけにもいくまいと感じるようになった。かな苫庵と言う原点に回帰して、アウトプットして行こう。

病気を公言することについて

家族親族、親しい友人、職場の人たちに対しては当然今罹っている病気のことを明かしているが、その中でも友人たちについては明かした人と明かしていない人との基準は曖昧と言うか、気分次第なところが大きい。入院した当初はこんなにも長引くとは思っていなかったし、3ヶ月程度で社会復帰できると踏んでいたから尚更だ。

また、所謂地下アイドルと呼ばれる人たちの中でも私を私として認識されているアイドルの子たちに対して、敢えて明かしてはいない。一推しの子には、しばらく入院しなければいけないことなどを明かしたが、それも彼女だけだ。ライブパフォーマンスを生業とする演者に対して、現場に行けない言い訳をするのは自分の主義に反するからだが、一推しの彼女にだけは伝えておきたかったのだ。それはもしかしたらもう二度と会うことができなくなる可能性もあったからだ。他のアイドルであれば、現場に会いに行けない私のことなど忘れてもらった方が気が楽だし、次来れるかな? 等と期待を持たせるのも心の負担になるだけだ。

結局、Xでも(身バレしていない他のSNSでも)罹っている病気について公言はしていない。入院していることは匂わせたり、サラッと書いたりしていたが、具体的な病名などについては触れていない。カミングアウトすることが怖いと言えば怖い気もするし、単に同情を買いたくないだけのような気もする。そしてこのタイミングで、今ココで明かすことに躊躇いが無いわけではない。躊躇いだらけである。

気持ちを整理するために、ここで一旦区切ろうか。(笑)